観音堂歴史

観音堂が福泉寺跡へ移った歴史

頭高山のふもとにある観音堂は、今谷村長楽寺の末寺(福泉寺)の跡地にある。1666年の寺院整理のとき福泉寺は廃寺になった。しかし村民は一間四方の小さな瓦葺きのお堂を建て本尊観音菩薩を移し祀り続けた。福泉寺の田畑は、村民が耕作して年貢を納め続けていた。その後の観音堂にまつわる歴史を調べてみた。

『岡山市の地名』には「土田村 寺山 寺跡 寺下」という地名がある。
岡山縣上道郡財田村大字土田 『土地臺帳附属地圖』財田村役場によると、頭高山あたりに小字名として「寺山 寺跡 寺下」の地名がある。
観音堂は寺跡に建てられている。
『吉備温故秘録』に「廃寺 真言宗宝山満願寺之寺中福泉寺 土田村 本寺今谷村光明院」と記している。
『池田家古文書』
池田家文庫によると備前岡山藩主池田光政(1609-1682)は寛文六(1666)年五月、寺院整理を行った。その約40年後、宝永四(1707)年「寛文六年亡所仕古寺書上帳」(岡山大学池田家文庫蔵)に実態調査の報告を残している。
寛文六年亡所仕古寺書上帳
  
  上道郡口分
   寛文六年亡所仕古寺書上帳

 一 古寺之跡壹ケ所
 上道郡土田村ただし山号知らず  
            福泉寺

  右は真言宗上道郡今谷村長楽寺光明院
  末寺にて御座候
  寛文六年神道に成り旦那はなれ
  申し候に付き福泉寺世渡り成り難く
  その節立退き申し候に付き
  亡所つかまつり候
  壹間半四方の瓦葺堂本尊観音しかり
  今村相に御座候
  村中共に信仰つかまつり候
  右寺敷九歩ほか田畠五反壹畝六歩寺地
  とつかまつり唯今迄村作につかまつり
  御年貢米上納しきたり申候

  (読下し文)

観音堂の歴史 資料から見えてくるもの
1666 寛文六年五月 備前岡山藩主池田光政は寺院整理をする。藩全体の寺院数1044寺の内481寺を残す
1692 元禄五年
九月十八日
奉造立観音堂壹宇当村繁榮祈所を記す三枚一組の建立札
1707 宝永四年 福泉寺が廃寺になり 本尊観音菩薩は観音堂に移されたことを「寛文六年亡所仕古寺書上帳」に記す
1763 寶歴十三未之天
吉祥日
「百萬返数珠箱」観音堂に奉納された
1767 明和四丁亥年二月 本堂脇の石碑
正面 「奉納心経錫杖普門品一宇一石経」
左側面 「願主 玄誉智法」
※玄誉智法は満藤善次郎
1819 文政二年己卯
三月吉日
石碑
正面に仏像「念佛百万遍」
       「光妙真言百万遍」
左面に「七十二歳満藤百重建之」
1853 嘉永六丑春 石階段脇石
「御堂 施主 満藤常二兵衛」
1869 明治ニ年
己巳九月吉辰

棟札
明治二年本願大西六代満藤清次郎為施
奉修覆観音堂天下泰平国家安全村中子孫繁榮
己巳九月吉辰
棟梁當村長尾輕造藤原長正」

1878 明治十一年
一月十二日
観音堂存置許可
明治10(1877)年1月岡山県は由緒不明の神祠仏堂の整理実施の通達を出した。土田村では大師堂、観音堂、地蔵堂の存置願いを出し存置の許可を受けた(「岡山市史 宗教教育編」から)
1899 明治三十二年中旬 板書表面
「西国第拾番 米田岩間山最光(明)寺
山城宇治御室堂本尊千手観世音菩薩
『夜もすがら 月をみむろと わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波』」
記す
※花山天皇御歌
板書裏面
世話人 「大森乗吾 光藤藤十郎 藤田八十次 大森浅吉」と記す
1933 昭和八年十月 観音堂改築 寄附者約80名余
1939 昭和十四年九月 石碑「金百五十圓 光藤岸次郎」
※石階段を作る
1970 昭和四十五年七月 観音堂新築 寄附者145名
祈祷:岩間山最明寺 僧侶里見増玉

山のふもとにある観音堂は、廃寺になった福泉寺の跡地にある。
お堂は江戸時代から途切れることなく、保存され立て替えられてきた。人々は福泉寺に鎮座していた観音菩薩を小さなお堂に祀り、五穀豊穣や村の繁栄を祈り、寺領を自分たちの田畑と共に作り年貢も納めていた。この観音堂と美しい聖観音菩薩立像をこれからも守り続けたい。

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