パリでの制作
坂田一男「キュビスム的人物像」1925年
 坂田一男「キュビスム的人物像」 1925年 岡山県立美術館蔵


両大戦間のパリは、エコールド・パリと言われる画家達(パスキン、キスリング、シャガール、スーティンなど)がほとんど外国からやってきた画家達であったことに示されるように、世界各国から大勢の芸術家がやってきて学んでいました。

日本人画家はモンパルナスに集中して住み、徒党を組んで親密な交流を繰り広げ、流行の美術を取り入れ帰国後画壇にデビューするというのがおきまりのルートになっていました。坂田はそのような行き方を嫌い、徹底して西洋精神を理解するため日本人とはつき合わず、日本人のいないモンマルトルにアトリエを借りて、自分の道を模索しました。

最初フォービスムの画家オトン・フリエスに師事しますが、飽きたらず、フェルナン・レジェに学ぶようになります。レジェはピカソやブラックと並ぶキュビスムの巨匠です。キュビスムは20世紀の初めの造形上の革命を引き起こした重要な動きですが、対象の分析、解体そして再構成というプロセスを経て画面を作っていく極めて理知的な制作にその特徴があります。日本人は情緒的・感覚的に描いていくフォービスムはたやすく受容しましたが、日本美術の伝統にはないキュビスムは受け入れられにくく、キュビスムからさらに抽象への道を辿った画家はほとんどいませんでした。

レジェに師事した坂田は急速に画風を変え、1925年の「キュビスム的人物像」(岡山県立美術館蔵)から「坐る女」のシリーズをへて1926年の「コンポジション」(大原美術館蔵)へとほぼ完全な抽象絵画へ辿り着いています。当時のヨーロッパの前衛的な画家達とともに第一線に立って新しい絵画を追求したのです。

この時期の坂田の作品には機械の要素が入ってきています。師のレジェも機械文明の様々な要素を取り入れていますが、産業革命以後工場生産の人工物が第二の自然として人間生活の中に入ってくるようになり、第一次大戦後はマシン・エイジと言われる時代が到来しました。坂田はこうした時代を敏感に感じ取り、絵に取り入れています。この時期の作品では人間は機械のような幾何学的なフォルムに還元されて描かれています。

パリ時代の坂田の生活も制作も大変苦難に満ちたものでした。生活の面では父の快太郎が体調をくずして医業を止めざるを得なくなり、仕送りもままならなくなりますし、制作も「建築士のような仕事」で「甲鉄の頭を与えて欲しい・・・連夜のぶっ通しだ。頭の鉢が割れそうだ」と手紙で家族に知らせ、慣れないキュビスムの思考と格闘しながら制作しています。

坂田は、パリのいくつかのサロンに入選を果たし、レジェの教室の助手格として指導するなど、実力を認められていました。


坂田一男