お日待ち

お日待ちの様子  お日待ちの様子


周辺の人々の多くは、代々この地に江戸時代から住んでいたと言われる。
宗教結社である講仲間が存続し、今も各戸、輪番で「お日待ち講」がお正月と9月に営まれる。
「お日待ち」が続いている地域は岡山のみならず全国的にも珍しいと言われている。
宗教行事とはいえ、娯楽の少ない時代には地元の人々の楽しみの場であったのだろう。

  
 「お日待ち」の夜、太鼓は響く

  毎年、松の内も終わりに近い1月12日と実りの秋の9月30日に、西崎講中(こうちゅう)のお日待ちは行われる。
 お日待ちは、文字通り、日の出を待ちながら、五穀豊穣、近隣の繁栄を祈願するという江戸時代からの宗教行事であったが、今日では夜を徹して行われることはなく、内容も簡略化されている。当地でも半世紀ほど前までは食事も用意したと聞いたこともあるが県内では未だに食事を出しているところもあるようだ。西崎講中は、妙見さまをはさんで、東組6軒、西組10軒からなる。
 お日待ちは東西別々に行われるので早番は夜7時、遅番は8時から始まる。定刻が近づくと、隣り同士、声をかけあってお宿となる家へ集まる。
「お宿、ご苦労様です」
 玄関で、そう挨拶して、次々に上がりこむ。お宿以外の家は、各戸から一人、たいてい、主婦が参加する。
 床の間には、お曼荼羅の軸がかけられ、白布をかけた低い祭壇には、大中小、三段重ねのつきたての丸いお餅、お神酒(みき)、お餞米(洗米)、お煎餅が、それぞれ輪っぱの台に乗せられている。
 
 お上人が太鼓をたたく

 あるお日待ちの日の茶菓子  やがて、日蓮宗妙林寺のお上人が現れてお看経(かんき)が始まる。西組には、自慢の太鼓があり、お上人は、それを叩きながら、お経を読まれる。
 この太鼓は、お日待ちの道具の一つとして講中に伝わってきたものだが、古くなり、いつしか使われなくなって、物置に放置されていた。
 再び使おうと思ったものの、響きが悪い。その太鼓を仏具やさんに持っていき、修理できるかを聞いたところ、皮を張り替えれば使えるようになるが、その代金で、新品が買えるということだった。しかし、私たちは、太鼓の皮を張り替えることにして皆でお金を出し合って太鼓の再生を果たした。
 以来、西組のお日待ちの夜には、必ずこの太鼓の音が響き、皆のお経にも力がこもり、講中の絆もいちだんと深まったように感じている。太鼓には、明治38年購入と記されている。お経が終るとお茶とお菓子、果物などが供される。さりげない会話が交わされ、もう一度同じお経が繰り返される。
 二度のお経が終り、お上人が退席されると、座の雰囲気はがらりと変わって、時代劇のテレビドラマにみられる、井戸端のような様相を呈する。
 挨拶のように、「腰が痛い」、「膝が痛い」という話から互いの家のお年寄りの具合を尋ねあい、町内の花見やバス旅行の予定、町内で空き巣が入った話、防災訓練、どこの歯医者が腕がいいか、どこの店がうまいか、にいたるまで、次から次へと、話の種は尽きない。
  

  その後半紙に切り分けたお餅と、お餞米、お煎餅をくるみ、お札を巻いて各家庭へのお持ち帰りとして用意をする。(お餞米は家でご飯を炊くときに入れる。)
 お餞米の包み方ひとつにも決まりがある。以前は組の最年長の方が、半紙の折り方から丁寧にお手本を見せてくださったものだが、その方も亡くなられて久しい。     
 後継者である私たちは、お日待ちのたびに、習ったことを確認しつつ、賑やかにおしゃべりをしながら事を進めてゆく次第だ。
 お持ち帰りの用意がすんだ後は、残りのお餅と、するめや駄菓子を肴に、お神酒をいただくことになる。
 砂糖をつけながらいっしょにいただく柔らかいお餅、皆で心を合わせて拝んだ後のお神酒は、事のほか、おいしい。この日ばかりは、下戸の人もお酒を口にして、話の行き先は止め処がない。深夜近くなって、お宿の家族への迷惑を思い、お開きとなる。
 現在のお日待ちの出席者の顔ぶれは60代、70代が中心。近隣では、お日待ちの行事をやめたという話もよく聞く。西崎でも次の世代が引き継いでくれるかどうか、絶滅の危機に瀕しているといっても過言ではない。
 昔を懐かしみながら、近所の交流を深める場として、お日待ちがいつまでも続くことを願っている。
するめを取り分ける様子



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