想いでの学び舎(ラジコンヘリによる空撮記録) − トップページ
リストマーク はじめに
記憶は、年を重ねるごとに深まることがあります。
幼年期や少年時代をすごした学校生活の想いでとあらば、なおさらでしょう。
しかし、時代の移り変わりの中、残念ながら、消えていった学び舎も多くあります。
今回ご紹介する写真の多くは、ラジコンヘリを使って上空から撮影したものであり、校舎だけでなく、その周辺も記録されています。かつて通った懐かしい道などもご覧いただけ、いっそう想いも深まるのではないでしょうか。
これらの写真から、懐かしい母校での生活を振り返り、心の故郷としていただければ幸いです。
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リストマーク 学校制度について


明治5(1872)年の学制布告により、明治6(1873)年から8年にかけて、各地で多くの小学(小学校)が設立されました。しかしながら、初期の小学校の多くは急激な制度改革のため、校地が間に合わず、「岡山県教育史」から引用すると「当時の校舎は、藁葺、武者窓、荒壁の粗造にして校舎内隔壁の設けなく採光最も不備」とあるような状況でした。寺や空き家を使ったことも多かったともいいます。また、教育費も直接、地域住民に求められたことから、学校経営自体も財政的に厳しいところが少なからずありました。
その後、明治12(1879)年の教育令を経て、明治19(1886)年に学校令と総称される法令が出されます。小学校に関しては小学校令が公布され、ここに戦前の小学校教育の基礎が確立します。この小学校令は何度も改訂されますが、その大きな特色は、(1)小学校を尋常小学校、高等小学校に分けた、(2)尋常小学校4年を義務とした、などでした。この他、昭和10(1935)年から始まった(青年学校のもとになる)実業補習学校も後の改訂で整備されました。教育制度が充実していくと、学校を求める地域の人々の要望も徐々に高まっていきます。そして各地域で校地が用意され、新しい学舎が整備されていったのでした。今も残されている校舎は、地域の人々の教育に対する思いを今に伝える遺産ともいえるでしょう。
昭和になって間もなく日本と中国との戦争が激化すると、小学校にも大きな影響が出てきます。昭和16(1941)年から昭和21(1946)年の期間、一律的に小学校を「国民学校」と称したのもその一例です。
そして戦後、昭和22(1947)年に教育基本法、学校教育法が公布され、六・三・三・四制の学校体系と、小中学校計9年間の義務教育が整備され、現行制度へ移行したのでした。


戦前は小学校を卒業すると、就職する人、進学する人に分かれました。進学先は高等小学校、中学校、工業、商業や農業などの実業学校、高等女学校、師範学校がありました。このうち中学校、実業学校、高等女学校は、戦後の新学制で高等学校に編入されました。それでは、戦前、今の中学校に該当する学校は何だったのでしょうか。実はこの問いかけは難問で、旧学制から新学制へ移行する際には、同じ学校でも学年によって新制の中学生や高校生になったりしたのですが、大ざっぱにいえば、高等小学校および青年学校が現在の中学校に相当するといえるでしょう。


幼稚園は、明治5(1872)年の学制の制定時にすでに法令に明記されていました。しかしその設置は学制のあとの教育令からで、岡山県下では、明治17(1884)年に師範学校に幼稚科が設けられたのがはじめでした。当初は小学校の敷地内に設置された幼稚科は後に、幼稚園として独立していくことなります。
リストマーク 学校の統廃合《小学校を中心に》
学校の統廃合には児童数の増減が大きく作用しました。岡山県下の在籍児童のピークは第一次ベビーブームに誕生した赤ん坊が小学校に入学する年齢になった頃で、1958(昭和33)年の約24万人でした。しかしその後は減少に転じ、1973(昭和48)年には15万人を割り込むまでになりました。
しかし、それにもまして学校に大きな影響を与えたのが高度成長に伴う、過疎・過密でした。高度成長期の1960〜1970年代の学校数をみると、1955(昭和30)年に611(分校83)あった公立小学校は、20年後の1975(昭和50)年には495(分校32)にまで減少します。その大部分は県の中・北部の小学校の統廃合でした。一方、県南部では1965(昭和40)年代から1975(昭和50)年にかけて10校の小学校が新設されました。しかし県南部の人口増も細かく見ると人口増は市郊外に偏っており、市中心部では1980年代以降、逆に人口が減少するというドーナツ化現象が起こり始めました。この結果、岡山市内中心部でも小学校の統廃合が行われることになりました。
今回のコンテンツでは閉校となった150校をこえる小学校、幼稚園や中学校の学舎の一部を紹介していきます。
リストマーク その他
・校名(園名)は、閉校(閉園)当時の名称です。
・「学校に関する情報(沿革等)」欄については、昭和16(1941)年から昭和21(1946)年までの間、一律的に小学校を「国民学校」と称したことなど一部省略しているものがあります。ご了承ください。
・ラジコンヘリコプターによる空撮写真のほか、一部地上撮影等の写真を使用しております。
リストマーク お礼
このコンテンツは、各市町村の教育委員会、統合校のご協力で作成することができました。
お忙しい中、資料をご準備くださいました皆さまにお礼申し上げます。
リストマーク 撮影及び文章
堀家 純一氏
リストマーク 参考文献
『岡山県教育史 中巻』岡山県教育会 (1942年)
『岡山県教育史 下巻』岡山県教育史刊行会 (1961年)
『学制百年史』文部省 (1972年)
『岡山県産業教育百年史』岡山県産業教育振興会他 (1986年)
『岡山県教育史(昭和三十一年〜昭和五十年)』 岡山県教育委員会 (1991年)
『岡山県教育史(昭和五十一年〜平成七年)』 岡山県教育委員会 (2006年)
制作:岡山県立図書館
著作権は、岡山県に属します。画像等の無断転用は、ご遠慮ください。
※このコンテンツは、岡山県立図書館メディア工房にて堀家純一氏と共同で制作しました。
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