【海からの視点】

   小串漁業共同組合代表理事組合長 竹原槙男



 岡山県の児島湾は、かつては九州の有明海とともに我が国の代表的な干潟の海で、遠浅の広大な干潟と干満に伴う潮流の速さが、独特の漁具・漁法を生み出しました。まさに豊饒の海であったわけですが、その歴史を振り返れば、干潟を舞台にした干拓と漁場利用の争い事の絶え間ない繰返しでありました。児島湾干拓は、天正12年(1584)、所謂「宇喜多堤」を端緒に始まります。その後、沖田新田の開発、明治期の藤田組による開墾事業、昭和期の大干拓に続き、そして、昭和34年には淡水湖の完成をみて、干潟を主要漁場とした児島湾特有の漁業は終焉を迎えたわけです。
 かつての児島湾特有の漁業といえば「樫木網」を思い出される方もいらっしゃるでしょう。一説には、「太閤秀吉が、高松城攻めの折に部落の漁師連中が尽くした功績を褒め讃え特典として認めた。」などと伝えられています。口辺8m四方・胴長23mの長大な袋網を直径1尺以上の大木2本を1組にし固定します。あまりの潮の速さにこの大木が振動し、ゴーゴーと音をたてたことを覚えています。冬のシラウオ漁に始まって春漁、夏漁と漁期は周年に及び、アキアミ、エビ、カニ、シャコ、イカ、ハゼ、ママカリ、サワラ、マナガツオ、ビゼンクラゲなど実に様々な魚介類が季節に応じて漁獲されたものです。また、児島湾には、漁船を持たず潟板・沖板などと称される板1枚で自由自在に移動し、ウナギ、ハイガイ、モガイ、アゲマキ(チンダイガイ)、カキ、シャコなどを漁獲する干潟漁師も多く、昭和初め(昭和6年)の児島湾は3000人以上もの漁民の生活を支えていました。当時は、これら以外にもニシ・マテガイ・ヤマトシジミ・アカメ・サヨリ・ヨシエビ・シカタエビ等々の数十種類の魚介類が、30種類以上の漁具・漁法で獲られていたのです。
 かつての隆盛の面影はありませんが、児島湾では、今も漁業が営まれています。私自身、半世紀以上に亘って児島湾で漁業に従事してきた現役の漁師です。400年以上に及ぶ干拓事業の中で最も大きな出来事であった児島湖締切による児島湾の変貌ぶりを目の当たりにし、肌で体験してきた一人でもあります。
 児島湖締切以降は、児島湾特有の潮流が著しく弱まり「樫木網」などの漁法は操業できなくなりました。広大な干潟もなくなりました。僅かに残された干潟も地盤高や底質などが今も変化し続けています。当然のことながら、干潟漁業は姿を消してしまいました。
 しかし、児島湾はまだ生きています。「青江のアオ」と言われた児島湾のウナギは今も生息しており、延縄漁師はウナギやハモを獲って生計を立てています。ここ2〜3年はガザミがよく獲れました。アキアミは毎年のように10月になれば姿が見え始め、アミ漁師は掬い網の準備に取り掛かります。カレイなどの幼魚や稚エビも育っています。また、児島湾の湾口部一体は岡山県の養殖ノリの7割近くを生産する県下随一のノリ養殖漁場になっており、これが児島湾の多くの漁師の生活を支えてきました。ただ、ノリ養殖を続けるのも並大抵の苦労ではありません。平成10年と16年には、台風に伴う大雨で旭川・吉井川から流木など大量のゴミが流れ出し、ノリ養殖施設が壊滅的な打撃を受けました。16年には高潮による大被害も合わさり、借金だけが残って廃業に追い込まれてしまった者もいます。しかし、この二大河川からの豊富な栄養塩供給のおかげがあるからこそ、児島湾周辺が県下でも有数のノリ漁場となっているのも事実です。
 我々、児島湾の漁業者は、河川から流れ込む栄養が海の命であることを見に沁みて知っています。だからこそ、河川からの流れを断ち切るダムは、海にとって悪そのものと思い続けてきました。平成10年と16年に河川から流れ出た大量の海ゴミにより被害を受けた際にも、一方的にダムのせいにして責め続けました。ダムは治水・利水の目的で作られたもので、我々漁業者が望んだものではありません。水は人間生活にとっても命そのものであり、その必要性はもちろん否定するものではありませんが、我々にとってはダム建設そのものがまさに寝耳に水でありました。
 ここ数年、ノリ養殖業者は苦難の連続で、平成17年度には年明け早々、1月初めから極端な栄養不足により、前代未聞の色落ち被害が県下全域で発生し、岡山県のノリ養殖業の存続が危ぶまれる事態に陥りました。こうなるとひたすら雨が降ってくれることを祈るしかないのですが、長期予報でも雨が降る兆候は微塵もなく、残る手立てはダムの放流をお願いするしかありません。ノリ漁場で伸びたノリはむなしく色褪せ、加工しても売れない状況が続き、刈り捨てるわけにもいかず、生産を断念して施設撤去に踏み切ろうとした矢先、多くの利水者の方々のご理解のもとに苫田ダムからの緊急放流が現実のものとなりました。放流3日後にノリの色が目に見えて回復してきた時には胸躍る思いでした。俄然元気づいた我々はすぐに生産を再開し、結果的にはその後断続的に続いた雨にも救われ、1ヶ月近く生産が延長できて、何とか首を括らずにすんだ次第です。平成18年度にも同様に激しい色落ち被害に見舞われましたが、ダム緊急放流で対応していただいて、何とかノリ養殖を続けることができ、今年も新たな漁期を迎えようとしています。この場をお借りしまして多くの利水者の方々やダム関係者の皆様に心より感謝申し上げます。
 漁業生産は大きな自然の力に左右されるもので「お天道様」次第…このことは漁業技術が進んだ現在も変わりません。しかし、今の海の状況は多くの人間が快適に暮らすために自然をむやみに壊し続けてきた結果であり、これをどうにかすることは人智の及ぶところではないと思ってきました。ところが、初めて経験する大規模なノリ色落ち被害が発生したとき、“我々がその存在を否定し続けてきたダム”の緊急放流によってノリ養殖が救われたのです。
 このことによって我々漁師もダムのことを勉強しました。少なくとも苫田ダムは大量の海ゴミを発生させるのではなく、治水機能によって大水被害を軽減し、海ゴミ発生量を抑制する役割を果たすこと、また、渇水期には、自然の状態ではもっと河川水量が減るところをダムからの放水で、最低限の河川水量を確保するのに役立つことも分かりました。
特にここ10年余りの間に、海のバランスは大きく崩れてその生産性は極端に落ち込んでおり、これが最近になってさらに加速度化してきています。このような厳しい状況を反映してか、「漁業用水」という言葉が盛んに言われるようになりました。しかし、この考え方は、我々漁師が本当に肌身で感じとっている感覚とは食い違いがあるように思います。我々が求めているのは、利水という水を利用する権利を主張するのではなく、太古の昔から普通に続けられてきた「川の水は海に流れ込む」という自然の営みを維持することであり、これが損なわれているのなら、元に戻さねばならないという思いだけです。
 2007年1月に発行された水産学会誌に「河川管理―ダムと水産」と題した特集が組まれ、「筑後川・有明海の環境保全に向けた河川水量の確保について」という国土交通省九州地方整備局の方の論文が掲載されました。有明海では、環境再生のための特別措置法が作られましたが、対象は海域だけでなく流入河川の流域全体です。この筑後川の対策事例は、環境維持に必要な河川流量を確保するための不特定容量の見直しや「弾力的管理」の必要性を唱ったもので、大変興味深い内容でした。
 香川県のノリ養殖生産も岡山の河川からの栄養補給に依存していることが、香川大学の先生方により報告されていますが、ノリ養殖に利用されるのは河川から供給される膨大な栄養のごく一部にすぎません。児島湾を経由して流れ込む河川水は、ノリ養殖のためだけにあるのではなく、豊かな森からの恵みであり、瀬戸内海の肺臓と言われる備讃瀬戸の生物生産を支える源です。河川からの栄養補給があるからこそ備讃瀬戸とその周辺水域の生態系が維持されてきたのです。日本の貴重な財産である瀬戸内海を守るために、ダムの「弾力的運用」などにより、海洋生態系の修復に新たなダムの役割を見出していただくことができるならば、これこそダムが環境を構成する一部として自然の生態系と一体になる道筋ではないでしょうか。
 そして、我々海で暮らす漁師も、ノリ色落ち対策としてダム放流の恩恵を受けたことをきっかけに、自分勝手に言い募るのではなく、ダムの治水・利水の社会的必要性や意義を認識するとともに、これまで以上に植樹活動などを通じて山と森を大切にすることが、里山と里海を緊密に繋ぎ、お互いを思いやり共に末永く山・川・海を守っていく大きな動きの契機となり、今後進むべき道標となると信じています。