土肥 経平どひ つねひら

 土肥経平は幼名吉五郎、後に典膳と改めた。富山山人(とみやまさんじん)、宇治郷散人(うじごうさんじん)と号し、家の号には竹裡館(ちくりかん)、緑雲庵(りょくうんあん)などがある。経平は土肥貞平の三男で、母は熊沢蕃山の孫にあたる。

 この土肥家は鎌倉御家人土肥実平の子孫だと称している。土肥実平は1180年の源頼朝の挙兵に参加しており、頼朝の元で活躍した。土肥家から分かれた家として小早川家が有名である。毛利元就の子隆景が小早川家に養子に入るが、この小早川家も元来、土肥実平を祖としているので名前の最後は「平」の字を使っていた。

 土肥経平は兄武平の後を継ぎ、禄高四千二百石番頭となった。享保14年(1729年)のことである。土肥家は岡山藩の中では上士の階層で代々番頭を世襲している。

 経平は明和元年(1764年)4月に蟄居
(ちっきょ)を命じられる。原因には諸説あるが、朝鮮使節の馳走役となった経平が牛窓に出張した際に部下の武田左太郎を同道した。この武田左太郎は岡山城番勤務がありながら出張先の牛窓から病気と称して岡山に帰らず、牛窓以外のところで不謹慎な行動があったようである。

 経平は、蟄居を命じられた際に子の延平に家督を譲ることになった。延平は番頭・番大膳の名跡を継いだが、兄が亡くなったため嫡子として土肥家に戻っている。代わりに弟が番家を相続している。延平は小仕置となり重職を担っていた。延平の室は三原城主浅野久忠の娘である。

 経平は隠居後に文学、有職故実の研究に力をそそぐことになる。岡山大学池田文庫にある「土肥秘函」は経平の自筆本・写本を多数含んでいる。「土肥秘函」の中で経平の署名があるものはおよそ80点200余冊あり、その中で経平が写した写本には「平家物語」「万葉代匠記」「大唐六典」などがある。経平の著作としては「備前渡部数馬仇撃記」「備前軍記」「本朝細馬集(ほんちょうさいばしゅう)」「鵜の本鷺の本弁疑(うのもとさぎのもとべんぎ)」「川中島五戦記偽書考」など多数ある。

 経平が交流した文人として湯浅常山がいる。常山の問いに経平が答えたものが「湯土問答」である。和歌については姉小路実紀、烏丸光胤
(からすまるみつたね)、日野資枝に教えを受けている。

 経平の娘は五条為俊と結婚しているが五条家は菅原氏高家の庶流で大納言、中納言が極官である。経平の娘は家老池田隼人の養女であった。格式上家老の養女であったことが五条家との婚姻には好都合であった。五条家との姻戚関係は経平に公家衆との交流と書籍収集の機会を与えたと考えられる。

【参考文献】
 「土肥経平に関する研究」(蔵知矩
(くらちただし)著 昭和10年)
 「岡山県人名辞典」(花土文太郎著山陽新報社大正7年)など

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『岡山県総合文化センターニュース』No.430号、H13年、11月