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津田永忠像
(沖田神社)

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津田  永忠つだ ながただ

(1)津田永忠の功績

 平成十二(二〇〇〇)年の後楽園築庭三百年記念事業に関する記事が新聞紙上で取り上げられるようになった。
 全国でも有名な大名庭園である後楽園の記念行事とともに、その造園関係者とされる津田永忠の業績も今後更に見直されていくことであろう。
 ここでまず、熊沢蕃山とともに岡山藩政の確立期に活躍した津田永忠の略歴を記しておく。
 永忠は寛永十七(一六四〇)年、備前岡山藩の津田永貞の三男として生まれた。
 一四歳の時から藩主池田光政の下に仕えた永忠を、光政は「彼者は、使い様悪敷ば、国の禍をなすべし、才は国中に双びなし」と考えていた。

 すなわち、使い方を誤まなければその才能は藩内最高の者ということである。光政とその子綱政に仕えた永忠の約五十年間の業績の内でも特筆すべき事項のみを分類・列記すると次のようになる。

◆教育・文化事業

  ・藩校石山仮学校・閑谷学校の設立

 ・和意谷墓所や池田家の菩提寺,曹源寺の造営

 ・吉備津彦神社の造営 

 ・後楽園の造営 


◆新田・用水の開発

 ・倉田新田・幸島新田・沖新田の開発

 ・田原井堰の築造

 ・百間川の開鑿


 これらの業績を見るとき、彼が岡山藩の、そして現在の岡山県の基礎を作り上げたと言っても過言で
はない。

永忠の文献としてまず、『津田永忠君年譜』(大5・木畑道夫編)がある。これは明治十五年に行われ
た芳烈公(池田光政)二百年祭の時に、著者が永忠の顕彰をはかるためにまとめたもの。また、『津田
永忠資料集』(昭15・岡山縣立図書館編)は、同図書館が永忠の後裔である津田勝女史より借用した文
書を謄写したもの。履歴・系譜・墓誌などが収められた基本的文献である。

 

(2)津田永忠と岡山

 岡山市後楽園に「津田永忠遺績之碑」が建てられたのは明治二十九(一八九六)年、今から約百年前
のことである。この碑文によると、当時の永忠に対する世間の関心は、熊沢蕃山に比べて相当に低かっ
たようである。

 ここで、前回に続いて永忠に関する文献を何点かあげていこう。

 永忠と岡山藩政及び池田家の関係が密接であることは言うまでもない。そのため、 『池田光政公傳』
上・下(昭7・石坂善次郎編)・『吉備温古秘録』(『吉備群書集成』第六輯所収)などの藩政基礎資
料や、『岡山市史』第五巻(昭50・岡山市役所編)、閑谷学校の「井田(セイデン)」についての記述
が見られる『井田(資料集)』(平2・井田開田三百年記念事業実行委員会)などの関連市町村史誌・
地区誌には、永忠の事績・年譜等が紹介されている。

 永忠研究の第一人者ともいえる柴田一氏は、こうした永忠の事績を当時の幕藩体制下の社会と関連付
け、さらに永忠の人物像・人間関係にまで焦点を当てて研究を進めている。『津田永忠 人と事績』
(昭46・柴田一著)と、それを充実させた『岡山藩郡代 津田永忠』上・下(平2・同著)は、岡山藩
政史研究及び永忠の先行研究を踏まえ、永忠の事績の歴史的意義を解明しようとした労作である。

 さて、県内各地には永忠にまつわる伝説が数多く残されている。例えば、田原用水の岩盤掘削にあた
り、菜種油を燃やして岩を焼き砕いたという話や、沖新田開墾の際には永忠の女中である「きた」を人
柱としたという「おきた姫」の伝説など。これらに関しては、『沖新田開墾三百年記念史』(平7・沖
新田開墾三百年奉賛会記念史編集委員会編)、『池田家文庫等貴重資料展 津田永忠の用水開発事業と
その歴史的背景』
(昭56・岡山大学附属図書館編)などを参照されたい。これら言い伝えは、その真
偽の程は定かではないが、永忠の残した業績と共に長く生き続けるだろう。

(『岡山県総合文化センターニュー ス』No.388・H9,1、No.389・H9,2)

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