出隆著作集/第3巻エッセー〈勁草書房発行〉より

        出  隆いで  たかし

                                 (1892〜1980)



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 哲学者出隆は明治25年(1892)岡山県苫田郡津山町(現在津山市)で生まれた。父渡部惟明は鶴山高等小学校校長などを務めた教育者であった。次男であった隆は、兄弟が多いために学資不足に悩む実家から父方の叔父出道直の養子になった。津山中学校入学の時である。

 養父出道直は小学校校長や真庭郡・久米郡・苫田郡の各郡の視学などを歴任。真庭郡勝山町長にも就任している。

 隆は明治42年(1909)第六高等学校第二部乙類(理農コース)へ入学するが同年11月には退学している。退学理由は哲学をしたくなったためであるが、第二部乙類在籍者の約半数が落第することに恐れをなしたのが真相らしい。隆と同時に入学し、落第しないで卒業したのは三宅馨(薬学博士)、田村剛(造園学の大家)他、わずか数人だった。退学の後、高等小学校代用教員となったが明治43年(1910)3月には退職し、同年9月第六高等学校一部乙類に改めて入学する。2年生になってまもなく、内田百間の留守宅に下宿したが、熱を出して百間の母や祖母に心配をかけることになった。診断の結果、肺尖カタルと判明、転地療養を余儀なくされた。

 大学の哲学科へ入学するためには数学と物理学の履修が必要であったが、休学していたため履修していなかった。そこで大正2年(1913)東京帝大文科大学文学科に入学、言語学を専攻する。この時の同級生には英文学科に芥川龍之介、久米正雄、哲学科には松岡譲らがいた。大正3年(1914)には、石井直三郎らと尾上柴舟をかついで短歌雑誌「水甕」の創刊に加わっている。

 この大正3年、念願の哲学科に転科入学、大正6年(1917)7月に卒業した。卒業論文は「スピノザ哲学に於る二元性と認識」であった。大学時代、桑木厳翼、波多野精一から思想上の大きな影響を受けた。

 大学院では「近世認識論史」を研究し、副手にもなった。大正7年(1918)から数校にわたる私立大学の教授を兼務したが、大正13年(1924)10月から東京帝大文学部助教授となった。大正15年(1926)哲学史研究のため欧州留学に出発、英仏独三国をまわって昭和2年(1927)帰国。ソクラテスや西洋哲学史に関する著書や論文を発表した。

 昭和10年(1935)学位請求論文「ギリシャ人の霊魂観と人間学」を提出、同年東京帝大教授となる。昭和12年(1937)文学博士となる。ソクラテス、アリストテレスなどを中心にギリシャ哲学の研究を行い、多数の著書や論文を発表した。

 昭和23年(1948)教え子を戦地に送ったことへの反省と真の自由を得るための闘争をしようと日本共産党に入党(最終的には昭和39年除名)。昭和26年(1951)東大教授を定年前に辞し、無所属で東京都知事選に出馬した。昭和31年(1956)日本哲学会委員長に選ばれ、1期在任する。

 水泳は津山神伝流免許皆伝、六高寮歌「野辺の小川に」の作詞者でもあった。昭和55年3月9日没、享年87。


参考文献】
 「出隆著作集 全8巻」(出隆著 勁草書房)
 「出道直先生伝記」(中村唯一編 出道直氏古稀祝賀会S9)
 「ふるさと文学館 第39巻」(磯貝英夫編ぎょうせいH6)
 「朝日新聞 1980・3・10朝刊」
 「津山市史 第7巻」(津山市S60)
 「山陽新聞 1980・3・10朝刊  

『岡山県総合文化センターニュース』No.441号、H15年9月

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