伊木長門守忠貞い ぎ  ながとのかみ たださだ


 伊木忠貞は慶長17年(1612年)に姫路で生まれた。元和2年(1616年)、父忠繁の死によりわずか5歳で家督を相続し、元和3年、池田幸隆(後に光政)が姫路から鳥取へ国替になった際には倉吉城を預かった。

 倉吉に入った忠貞は天神川、小鴨川の堤の改修を行い、今なお長門土手と呼ばれる土手が残っている。寛永9年(1632年)、池田光政が備前へ国替となり、邑久郡虫明陣屋を守備した。伊木忠貞は伊木氏三代目当主であるが伊木氏の岡山藩家老としては最初の人物である。

 伊木氏の初代は伊木忠次である。伊木忠次は香川長兵衛(または清兵衛)と称した。織田信長に仕え、美濃伊木山城を落とす際に活躍したので信長から伊木氏を名乗るように言われ、香川氏から伊木氏に改めた。伊木忠次は、池田信輝の家臣ではなく、織田信長の家臣であったが、信長の許しを得て池田信輝が伊木忠次を配下に組み込んだのである。

 伊木忠次は豊臣秀吉、徳川家康から陣羽織などを賜っており、池田信輝が小牧、長久手の戦いで戦死した後の池田家において重要な役割を果たした。伊木氏が池田家において家老の地位を占めることになったのは、元来織田信長の家臣であることだけではなく伊木忠次の働きによるものだと考えられる。

 伊木忠貞は伊木氏の家督を継ぎ、姫路から鳥取へ、鳥取から岡山へという二度の国替を経験し、池田光政を筆頭家老として支えていったのである。忠貞については様々な逸話があるがここで二つの話を紹介する。

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伊木長門守忠貞の墓(邑久郡邑久町虫明円通山)
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 『主君の警衛のために江戸へ向かった忠貞が箱根の関所にさしかかると西国大名の人数は通行止めという布令が、慶安の変に関連して出されていた。忠貞は「将軍に対して二心ある者にあらず。お疑いなら帰りまで、この腕をお預かり下され」と詰めよったので番人どもが恐れをなし門をひらいた。ところがこれに便乗した者が「伊木長門(忠貞)の家中」と偽称して関所を越える者数知れずだったという。』※1

 『忠貞は江戸からの帰国途上、川崎宿で急死するが、その死因について将軍からの使者が追いかけてきて茶会に招待され、覚悟を決めて茶会に臨み毒殺されたという。』※2

 地元では千力様とも呼ばれている伊木忠貞については次のような参考文献がある。
『伊木氏表忠録』※1 (池上淳之編)、『邑久町史』※2 (邑久町役場)、『備前藩筆頭家老伊木氏と虫明』(邑久町郷土史クラブ編)、『岡山藩政史の研究』(谷口澄夫著)

『岡山県総合文化センターニュース』No.428号、H13年、7月

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