池田利隆 (林原美術館 蔵)
   池田 利隆(輝直、玄隆)いけだ としたか         

        (1584〜1616)

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 池田利隆は天正12年(1584)池田輝政の長男として岐阜に生まれた。母は摂津茨木城主中川清秀の娘であるが、利隆を産んだ後、体調が戻らなかったため中川家に帰っている。文禄3年(1594)父輝政は徳川家康の娘である督姫を継室に迎え、忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興をもうけている。
 慶長5年(1600)上杉景勝征伐に従軍していた輝政、利隆親子は石田三成の叛逆の報に接し、東軍の先手として織田秀信の守る岐阜城を攻める。福島正則との先陣争いは有名な話である。関ヶ原の戦いにも参加した輝政は播磨国姫路城主として52万石を領有することになる。慶長8年(1603)利隆の弟忠継が備前国を与えられるが、まだ幼少のために利隆が備前国の国政を執った。しかし『池田家履歴略記』によれば利隆は父輝政(姫路城主)の指示を受けていたようである。
 慶長10年(1605)利隆は榊原康政の娘で徳川秀忠の養女を正室に迎え、慶長12年(1607)には松平の称号を与えられた。利隆は松平武蔵守と名乗った。慶長14年(1609)備前国岡山城で利隆の嫡子光政が誕生。慶長16年(1611)には光政の弟池田恒元も岡山城で生まれている。
 利隆は父輝政が亡くなる慶長18年(1613)まで備前国を治めた。輝政の死後、まもなくして幕府は安藤対馬守重信、村越茂助直吉を播磨国の利隆の許へ派遣して政務を監査した。このことによって若原右京、中村主殿が処分された。利隆は播磨国(宍栗、佐用、赤穂三郡を除く)42万石を相続し、弟忠継は備前国と播磨国三郡を領有することになった。池田家家臣団も再編成され、池田内記、池田出羽、伊木長門、日置豊前などは利隆に従い、荒尾志摩守、荒尾但馬、和田壱岐守らは忠継に付いた。
 慶長19年(1614)9月、利隆は江戸城修築を行っていたが、大阪冬の陣のために急いで姫路に帰国、同年10月出陣し西宮に進んでいる。この時池田出羽、伊木長門は江戸に留め置かれた。同年11月豊臣秀頼から大坂方に味方するように誘われるが、秀頼からの書翰を京都所司代板倉勝重に差し出している。同年12月1日利隆は天満橋方面から攻撃し、戦果をあげている。
元和元年(1615)2月父輝政の継室であった良正院(督姫)と弟忠継が相次いで死去。そこで世にいう毒饅頭事件のうわさを生みだすことになる。
 同年4月、利隆は大坂夏の陣のために2万の兵力で兵庫へ出陣する。今度は池田出羽、伊木長門も出陣を許されるが池田出羽は江戸と伏見に、伊木長門は江戸へ自分の子を人質として残した。池田出羽は父、之助を小牧長久手の戦いで失い、伊木長門の伊木家は元来織田信長の家臣で、豊臣秀吉との関係も浅からずということで警戒されたようである。利隆自身も夫人と二男恒元を人質として江戸に下向させた。利隆の軍勢は天満船場方面を攻撃し、多くの首級をあげている。
 元和2年(1616)利隆は江戸にいたが体調をくずし、保養のために京に赴いた。しかし京の京極高知邸において33歳の生涯を閉じた。

 

参考文献】
 「池田家履歴略記上巻」(日本文教出版 S38)
 「大日本史料第12編之16〜18」(東京大学史料編纂所 S48覆刻)
 「大日本史料第12編之25」(東京大学史料編纂所S49覆刻)
 「吉備群書集成第4輯所収埋禮水」(吉備群書集成刊行会 S6)
 「岡山県史第6巻近世T」(岡山県 S59)
 「寛政重修諸家譜第五」(続群書類従完成会 S39)

『岡山県総合文化センターニュース』No.442号、H15年11月

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