mandai.GIF (43146 バイト)
万代常閑像
(妙国寺)

画像等の無断複製・転載・改変・
放送等は禁じられています。

万代常閑まんだいじょうかん


 万代常閑の名は岡山よりも富山で有名で、富山では「越中売薬の祖」として知られる。富山市梅沢町の日蓮宗日向山妙国寺では万代家から分骨された常閑の遺骨をまつり、毎年売薬商人が帰郷する6月5日に報恩祭を営んでいるという。万代家では代々「常閑」を襲名しているが、ここにいう常閑は万代家11代の常閑である。
 万代家の「先祖書」(『和気郡史 資料編上巻』所収「万代家文書」)などによると、万代家は3代主計
(かずえ)の時、応永年間(1394〜1427)に備前国和気郡益原村(現和気町益原(ますばら))に移り住み、常閑と改名、家名も「もず」から「まんだい」に改め、家伝の妙薬「延寿返魂丹(はんごんたん)」を以て医業を職とするようになったという。「返魂丹」は初代掃部助(かもんのすけ)が唐人から秘法を伝授されたものと伝えられている。
 返魂丹と富山との関わりは次のように語られている。常閑が長崎へ旅した時のこと、懇意になった富山藩士日比野小兵衛が腹痛で難儀した際、常閑が与えた返魂丹で腹痛がおさまった。小兵衛は常閑からその製法を学び自ら用いていたが、藩主前田正甫(まさとし)が腹痛で苦しんだ時、これが効いたことから、正甫はこれを藩内の薬種屋松井屋源右衛門に命じて製造、販売させることにした。その効き目は顕著で評判となり、正甫は松井屋源右衛門に命じて広く諸国へ売り広めるよう命じ、源右衛門の手代源兵衛が諸国へ販売することになった。これが越中売薬の始まりであるという。
 岡山では、すでに江戸初期のころ、8代常閑は岡山藩主池田忠雄に招かれ、城で返魂丹を調合、その後も度々城に召されたという。元禄17年(1704)には11代常閑が藩主綱政から森下町に屋敷と「延寿返魂丹」の大看板を下賜され、のちには10人扶持を与えられて郡医者を仰せ付けられている。
 返魂丹は岡山領内では「大庄屋廻し」とよばれる独特の方法で販売された。それは、返魂丹一粒を銭40文とし、大庄屋組ごとに100粒ずつを預け、年々その代金を徴収するという、藩の支配機構を利用した置き薬方式であったが、郡代高木右門の時(19世紀初頭)大庄屋廻しが廃止されると、以後販売は思うにまかせなかったと考えられる。これに対し、富山藩では明和2年(1765)「反魂丹役所」が設置され、販路を拡大していった。江戸末期、例えば津山藩領内で富山の売薬が8株の薬種屋に許可されて販売されている。
 当館で閲覧できる関係図書には、『反魂丹売薬の起源と萬代常閑』や『富山売薬業史史料集』などがある。

『岡山県総合文化センターニュース』No.418号、H11年、11月

「おかやま人物往来」へ戻る