業合 大枝なりあい おおえ

 業合大枝は邑久郡邑久町北島字上寺の人で豊原北島神社の祠官(しかん)で国学者・歌人でもあった。豊原北島神社は、藤戸合戦で有名な佐々木盛綱が奉納したと伝えられる色々威大鎧(国指定重要文化財)を所蔵していることでも知られている。
 大枝は寛政3年(1791年)に備前神職組頭兼大頭業合信庸
(のぶつね)の子として生まれた。大枝は父の寺子屋を助けていたが文化6年(1809年)19歳で藤井高尚の松屋(まつのや)門に入った。
 大枝の師である高尚は本居宣長の鈴屋
(すずのや)に入門し、宣長から将来に期待を寄せられた人物であった。
 高尚は吉備津宮祠官藤井高久の子で国学者として活躍し、「伊勢物語新釈」「古今和歌集新釈」などの主著のほか、文集、紀行文、和歌集がある。
 大枝は文政2年(1819年)29歳で香川景樹の歌論集「新学異見」に対して「新学
(にいまなび)異見弁」を執筆し、景樹の説を批判した。「新学」において賀茂真淵は「万葉集」を理想とし、歌の詞、調べも「万葉集」を手本にすべしと主張した。それに対して、香川景樹は「古今集」を理想とし、元来、歌は実情を自然に述べるべきもので作為技巧が介在してはならないとし「万葉集」に似せること自体がよくないと主張した。大枝は「新学異見弁」で真淵の立場に立ち、景樹の主張を批判し、よき歌を見習うことがなぜ悪いのかと反駁を加えた※1。この「新学異見弁」の完成までに藤井高尚の添削による指導や助言があったことが知られている※2。高尚の大枝に対する信頼の篤さを示すものとして、高尚が秘蔵の本居宣長画像を絵師に写させ、自ら賛を加えて大枝に贈った事実を挙げることができる。また高尚の養孫高枝(後の高雅(たかつね))は大枝から和歌の添削など受けていることも知られている。
 文政6年(1823年)に大枝は藤井高尚と親交のあった平田篤胤
(ひらたあつたね)の「気吹舎(いぶきのや)」に入門する。大枝は篤胤からも学才を認められ、入門してまもなく吉備地方の古道学助教に任命されている。
 業合大枝の主著としては前述の「新学異見弁」の他に「神代紀新釈
(じんだいきしんしゃく)」がある。全15巻からなり、藤井高尚から受け継いだ鈴屋・松屋の学風と平田篤胤から受け継いだ古道学の影響下で執筆されたものである。
 大枝の和歌は「類題吉備国歌集」「新世名家歌集」「類題鰒玉
(ふくぎょく)集」などに採録されている。
 豊原北島神社の前には「まよひきのむかつ嶋根も霞む也常世をかけて春や立らむ」という大枝自筆の歌碑がある。


【参考文献】
 『日本古典文学大辞典 第4巻』(岩波書店 昭和59年)
※1
 『藤井高尚と松屋派』(工藤進思郎著 風間書房 昭和61年)
※2
 『業合大枝略伝竝に歌集』
   (小林久磨雄、近藤 巖共編 業合大枝翁歌碑建設発起人会 昭和26年)
 『岡山大学所蔵 業合文庫、塩尻文庫目録』(岡山大学附属図書館 昭和62年)

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▲「藤井高尚業合大枝文稿藤井高尚写
  (岡山県立図書館所蔵)
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『岡山県総合文化センターニュース』No.431号、H14年、1月

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