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重源座像 複製(部分)
(原品 新大仏寺)
岡山県立博物館蔵
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俊乗房 重源しゅんじょうぼうちょうげん

 「本朝高僧伝」(『大日本仏教全書』所収)によると、重源は京都の紀氏の出。真言宗京都醍醐寺に入って出家、のち法然に学んだという。47歳の仁安2年(1167)宋に渡り、翌年帰国。帰国は栄西と一緒であった。岡山の人ではないが、岡山の歴史を語る時欠かせない人物の一人である。

 重源の名前が一般に知られるのは、東大寺再建の中心人物として活躍したためである。養和元年(1181)60歳の時、重源は前年平重衡の南都焼き討ちで焼失した東大寺再建の勧進職に任じられ、この後86歳で示寂するまでの25年間を東大寺の再興に捧げることになった。

 東大寺再興の費用をまかなうため造営料国として文治2年(1186)に周防国(山口県)があてられていたが、建久4年(1193)には備前国が追加されて、周防国からは良材が、備前国からは瓦が供給された。瓦用の窯は瀬戸町万富に築かれ、ここで焼かれた瓦は吉井川から積み出されて瀬戸内海を奈良へ運ばれた。
備前国が東大寺の造営料国に当てられ、重源に与えられたことから、岡山市の古刹金山寺には、金山寺の僧が本堂と末寺の修理料田3町歩をもとのように免田にして欲しいと願い出たものに重源が裁許を与えた文書が残り、岡山県南部には重源ゆかりの地も多い。
 重源が自らの事跡を書き記した「南無阿弥陀仏作善集[さぜんしゅう]」には、備前国内で常行堂を建て丈六の阿弥陀如来を安置したこと、国府に大湯屋を建てたこと、国内の貴賎を勧進して船坂山を切り掃い、路を整備して旅人の難儀を救ったこと、国内の22カ寺を修造したことのほか、作善が備中国にまで及んだことも見える。付近から「東大寺」の刻印のある瓦が出土していることから、常行堂は岡山市一宮の吉備津彦神社境内の東南の辺り、大湯屋は岡山市湯迫の浄土寺境内と推定されている。

 重源は真言宗の僧であったが、自らを「南無阿弥陀仏」と称し、各地に阿弥陀堂や阿弥陀如来像を建立するなど、その事跡を特色づけているのは阿弥陀信仰である。それは鎌倉新仏教とよばれる新しい仏教が興隆した時代に、旧仏教のなかに生れた新しい流れであったということができる。

 重源について触れた著作では、「南無阿弥陀仏作善集」を全文収録した『俊乗房重源史料集成』が必読。ほかに『俊乗房重源の研究』・『日本名僧論集』など多数がある。

『岡山県総合文化センターニュース』No.416、H11,7

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