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“熱い秋”と呼ばれるイタリアの労働運動について
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イタリアの現代史から“熱い秋”に関係するものがないか調査する。
①『イタリアの歴史』(創土社 2005刊)の九章 共和国イタリアで、“五節 抗議運動の激化一九六八-七三年”として大学紛争、「新左翼」の形成、「熱い秋」、改革の実現と一連の社会状況についての記述がある。
それによると「一九六〇年代後半から七〇年代初期にかけて、一連の抗議運動がイタリア社会を震撼させていた。(中略)国民は、過去一〇年間の急激な変化のために生じたさまざまな社会のひずみに苦しみながらも、新しい時代への期待も抱いていた。ところが、政治家たちそのひずみを和らげることも国民の期待に応えることもできず、人々を激しい抗議に駆り立てた。それはイタリア独自の社会現象ではなく、他の国々でも同じような激しい抗議運動が起きていた。(中略)しかし、イタリアほど幅広い階層の人々を巻き込み、長期間にわたって抗議運動が続いた国は他になかった。」とあり、大学紛争が、一九六七年から六八年にかけて、最初に突発した。さらに「北部の労働者たちが一九六八年から六九年にかけて激しい抗議運動を起こし、次々と大規模なスト、工場占拠、デモを行い、全国各地で示威行動の嵐が吹き荒れた。この嵐が最高潮に達したとき、人々はそれを一九六九年の「熱い秋」と名づけた。」とある。
②『イタリア史』(山川出版社 2008刊)でも、第12章共和政イタリアの後半で、諸社会運動の高揚として、「熱い秋」と呼ばれる社会状況を生み出した経緯がある。さらに、フォンターナ広場の爆弾破裂事件に関しても記述がある。「こうした最中の一九六九年十二月、ミラーノの中心に位置するドゥオーモ(大聖堂)裏手のフォンターナ広場に面した全国農業銀行で爆弾が破裂し、十六人の死者と多数の負傷者がでた。警察当局は捜査の対象をアナーキストに向けたが、犯行は右翼団体によるものだった。左翼の進出にたいして、右翼グループと国家の秘密情報機関は、政財界の一部を巻き込んだ「緊張の戦略」によって対抗しようとするが、この事件はその始まりだった。」とある。
フォンターナ広場の爆弾事件については、イタリアの社会情勢に関する資料を調査した。
③『新イタリア事情 上』(朝日新聞社 1983刊)では、“フォンターナ広場爆弾事件”として記述があり、裁判の経緯などもわかる。
④『現代イタリアの極右勢力』(大坂経済法科大学出版部 2003刊)は、第二次世界大戦後の様々な右翼運動を分析しているなかで、「第5章 緊張の戦略:事例研究」に、フォンタナ広場の事件が取り上げられており、詳細な記述がある。
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