纏
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①『日本の歴史の道具事典』には、「纏は、江戸時代の町火消が自分の組をアピールするために火事場でかかげた目印です。町火消は町人の消防組織で、江戸には、いろは47組(のち48組)がありました。太い棒の先についた「だし」と呼ばれる部分に、組のトレードマークを大きく描きこんでいました。下にぶら下がる布や革でつくったかざりは「馬れん」といいます。」とある。また、「火事が起きると、定火消の太鼓や火見櫓の半鐘が鳴らされます。すぐさま火消たちは、纏を先頭に火元に駆けつけます。火消は火事場に着くと、まっ先に纏をかついで近くの建物の屋根に上り、纏を大きくかかげました。火の広がりをここまでで防ごうという、火消仲間への目印にしたのです。火消の誇りや意気ごみをしめすものでしたが、組どうしの競い合いから、より火元に近いところに纏を立てる競争になり、喧嘩やいざこざも絶えなかったようです。」と記載されている。「だし」「馬れん」の各部についての説明もあり、写真が掲載されている。
②『江戸のくらしがわかる絵事典』、③『落語でわかる江戸のくらし 2』、④『タイムスリップ!江戸の町で大冒険』、⑤『日本の歴史 3』にも、①と同様に纏や纏持ちの役割について記載され、それぞれ写真や絵が掲載されている。
⑥『江戸の町 下』には、「町火消し」の項目で「一七二〇年(享保五年)には、武家火消しと同じように「纏」をもつことが許されました。「纏」とは、もともと戦争のときに大将の陣所のしるしとしたもので、戦場のような火事場では頭の指揮所を示しております。」と記載されており、イラストも掲載されている。
⑦『むかしのしょうぼういまのしょうぼう』には、1700~1800年ごろの火消の絵が掲載されており、纏について「火消の組々の目印。この絵本に出てくる白塗りのまといになったのは、1791年にまといの華美禁止のお触れがでてからである。また馬簾(まといの飾りで、和紙でできている)に墨線がはいったのは明治になってから。」と記載されている。
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