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内田百閒

動画数:1本

カテゴリ情報

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メタデータ

タイトル
タイトル

内田百閒

(ウチダヒャッケン)

郷土情報の種類
郷土情報の種類

動画

作成者または作成団体
作成者または作成団体

テレビせとうちクリエイト

(テレビセトウチクリエイト)

公開者または公開団体
公開者または公開団体

岡山県立図書館

(オカヤケンリツトショカン)

郷土情報の概要
郷土情報の概要

”味わい深い作品で独自の境地を開いた小説家・内田百閒。百閒、本名栄造は、明治22年、岡山市古京町の造り酒屋の長男として生まれました。岡山中学を卒業後、六高に進み、後の百閒文学の素地ともなった俳句を学びます。この時つけた号が、近くの川の名前を取った百間。後、門構えの中を月にした百閒です。その後、東京帝国大学独文(ドイツ)学科に進学。また、幼い頃から傾倒していた夏目漱石の門下に入り卒業後も、漱石の著作の校正や整理に従事しました。その傍ら、大正5年以降は、陸軍士官学校、海軍機関学校、さらに法政大学でドイツ語を教えました。幻想的な味わいを持つ小説集「冥途」で文壇””デビューしたのは、32歳の時。独自の文体で新境地を開きました。その後発表した「百鬼園随筆」は、独自のユーモアの中に、人生の深淵をのぞかせる随筆として評価されています。実生活でのこだわりも多く、美食家、無類の酒好きとして知られ、「目の中を走られても痛くない」ほどの鉄道ファンでもありました。また、中学時代から琴に熱中し、宮城道雄とも親交を持っています。昭和25年、法政大学の教え子や文章の弟子達が集まり百閒を囲む「摩阿陀会」を結成。阿房列車の旅が始まりました。この模様を描いた紀行文「阿房列車」シリーズは幅広い支持を得ています。その頑固ぶりはつとに有名で昭和42年、78歳のとき、芸術院会員に推薦されながら「イヤなものはイヤだ」と辞退し、世間を驚かせました。昭和46年、最後の作品「日没閉門」刊行直後、82歳で死去。百閒の文学碑は、旭川の堤の公園に建”てられています。

場所
場所

岡山県岡山市古京町1丁目

NDC分類
NDC分類

217.5:岡山県
289:個人伝記

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http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004090120432437527