【井田跡(市指定史跡) 高画質(500kbps程度)】 - デジタル岡山大百科 | 郷土情報ネットワーク
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井田跡(市指定史跡) 高画質(500kbps程度)

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メタデータ

タイトル
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井田跡(市指定史跡) 高画質(500kbps程度)

(セイデンアト シシテイシセキ)

郷土情報の種類
郷土情報の種類

その他

作成者または作成団体
作成者または作成団体

備前市

(ビゼンシ)

公開者または公開団体
公開者または公開団体

備前市

(ビゼンシ)

郷土情報の概要
郷土情報の概要

井田とは、備前藩主池田光政が中国周代の土地制度とされる井田法を現実に再現したものである。  寛文6年(1666)、前々年に完成した友延新田を視察した光政は、この地に井田法による地割りを施すよう津田永忠に命じ、寛文11年(1671)に完成した。これが上井田で、友延新田は井田村として誕生した。さらに貞享元年(1684)から元禄初年(1688年ごろ)にかけて、その南に津田永忠により、下井田が造成され、宝永7年(1710)下井田は閑谷学校の学田とされた。本来伝えられている井田法は900畝の方形の土地を9等分し、そのうち外側の8区画を個々の農民の私有地とし、中央の1区画を公田として共同耕作し、その収穫を年貢として収めるものであるが、上井田が9町7畝、下井田が9町3反18歩である。当初、上井田は年貢の収公も井田法に基づいておこなわれていたが、延宝3年(1675)以後は、藩財政の悪化のため通常の田地と同じにされた。現在指定地には明治9年に建てられた「井田碑」(篆額 西微山・撰文 山田方谷・書 鎌田博)がある。

時代
時代

明治時代 1877-10 ~ 1877-10

場所
場所

岡山県備前市穂浪

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