回答内容
「工芸美術に格別こりを持つ敬堂(注:孫三郎のこと)は、さっそく、児島虎次郎画伯に設計を命じた。児島の意中には、皇太子は天皇になられる方だから、めでたい意味で竜の模様を描きたい。また敬堂も“辰”年だから、このことも考えに加えてもいい、という構想ができたものと思う。その描いた絵は<中略>欄干をつなぐ十二本の石柱の頂には、皇室の紋章にちなんで、十二弁の菊花をあしらってある。これを下絵として、児島画伯のおいに当たる、東京美術学校彫塑科を卒業した故児島矩一が、石膏で実物大の模型をつくり、倉敷紡績株式会社建設課長の村木卓郎が現場監督となって石工に彫らしたのであった。」(犬飼亀三郎『大原孫三郎父子と原澄治』昭和48年)とある。以下、後日の参考までに記しておきます。朝日新聞(1997年12月7日)に「今橋工事記録写真」が児島塊太郎氏宅で発見され大原美術館へ寄贈されたとある。また『夢かける 大原美術館の軌跡』(山陽新聞社編、平成3年)の巻末に、参考資料・文献が紹介されている。「大原家執事日誌」(大原家所蔵)、関連人物などの日記や日誌、さらには児島虎次郎あて書簡、大原孫三郎あて書簡などもあるようである。これらの当該時期になんらかの記述があるかもしれない。なお紹介されている「大原孫三郎日記」は該当期間でなく、「児島虎次郎日記」については『児島虎次郎略伝』(児島直平、昭和42年)で紹介されて架橋の経緯等はわかるがデザイン選定の理由までは記されていない。これらの資料を閲覧する機会があれば何らかのヒントが得られるかもしれない。しかし、現在のところ残念ながら一般には公開されていないようである。
回答館・回答団体
倉敷市立中央図書館