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足守藩の陸奥国への村替えについて
質問内容
足守藩の領地が、足守近辺の十一ケ村のみを残し、大半が陸奥国へ村替えとなったのは何故か。
回答内容
人見彰彦「寛政改革と足守藩」(『岡山県史研究 第12号』、岡山県総務部県史編纂室、1990年)に、その真相らしきことが記されている。永山卯三郎編『吉備郡史 下巻』(名著出版、1971年)のP.2783~に掲載されている小野泉蔵宛古川古松軒書簡をもとに考察している。第9代藩主木下利彪が、寛政11年(1799)に「参勤道中不作法之所行」があったとして謹慎・隠居となり、さらに奥州村替えにまでなった。「不作法之所行」とは何か、「道中見付駅ニ而、家人田中九之丞生害」云々、「女中召連参勤仕」云々ほかが記されている。さらに処分後に、「淡路守様(利彪)御咎被仰付候祝之儀、不忠不義之家人も可有処、其沙汰無之段不届」云々、「御咎中、門戸不閉罷在候」云々ほかがあった旨が記されている。つまり、参勤道中において生害事件になる不祥事が起こり、愛妾を連れていたということも発覚し、それらが発端となった。そして、処分後の謹慎態度や家中取締もよろしくなかったということのようである。ちなみに、田中九之丞は忠臣として近水園内の小祠に祭られている。
回答館・回答団体
倉敷市立中央図書館
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