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森田道成と「堰手之舎」の読み方について
質問内容
回答内容
・『岡山県歴史人物事典』(資料①)には、「森田道成」という項目がない。同書に、「平賀元義」の項目はあるが、「森田道成」や「堰手之舎」の記載はない。
・質問の情報源が、石田寛著「熊山町の文化風土」であることから、『熊山町史 通史編上』(資料②)を確認する。「森田道成の詠歌について」という項目があり、簡単な人物紹介がある。道成は通称を彦四郎といい、後輅九郎という。
・再び『岡山県歴史人物事典』(資料①)を確認すると、「森田輅九郎(もりたらくくろう)」という項目名で記載がある。出典は『[熊山町立豊田小学校]創立百周年記念誌』(資料③)であることがわかる。両資料によると、道成は、1815年(文化12年)10月20日生、1875年(明治8年)8月23日没の地方政治家・歌人である。1840年(天保11)美作の湯口家から円光寺村の森田家の養子となる。(佐伯)市場村の庄屋<1845年(弘化2)~1859(安政6)>として実績をあげ、1860年(万延元)円光寺村ほか二ケ村の大庄屋に任ぜられる。1859年(安政6)年9月、平賀元義が輅九郎宅・私塾・寺子屋を訪れ、堰手(いで)之舎と揮毫する。内田長麻呂(七郎作)などと共に、元義の門下として、万葉調の歌を詠む。道成は「堰手之舎八詠」でも元義の添削を受け、きびしい修学をつむ。1869年(明治2)4月10日に議頭補となり、岡山藩議員に参加し「議院御用留帳」を記録する。1872年(明治5)1月5日から同年6月12日まで第22区戸長をつとめる。
・『平賀元義と現熊山町域の歌人達 1』(資料④)には、「堰手之舎」は「いでのや」とふりがなが記載されている。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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