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明治天皇の肖像画について
質問内容
回答内容
『皇室切手』p.20-21には、肖像画を作ったきっかけは、明治5年1月にアメリカ大統領と会見した岩倉使節団が、欧米諸国との友好に際して国家元首の写真を交換する外交儀礼が存在することを知ったことと説明されている。そして、「天皇が巡幸から帰京した七月末になってようやく、写真家・内田九一によって天皇と皇后の肖像写真が撮影され、その写真がアメリカに送られた。これが、世界に発信された公式の天皇・皇后像の最初のものとなる。」と記述されている。
『天皇の肖像』p.114-135には、「明治天皇の肖像写真はあまり多くない。一般には、明治五年(和装)、六年の写真(洋装)と、明治二十一年の肖像の三種類である。」と記述されている。また、「明治二十一年の肖像は、たしかにモデルの年齢も高くなり、成熟した天皇であるということは事実だが、それだけではなかった。画面の切り方も違い、ポーズも違い、前の二枚とはまったく違った視線が働いているのである。モデルとしての天皇そのもの以上に、写真そのものの構成、図像を形成する視線において、なにかが変わった。いわば天皇を理想化する視線が作用していたのである。」と説明されている。
『ミカドの肖像』p.424-437には、明治21年の御真影が作られた背景や経緯について詳しく説明されている。明治8年に来日したイタリア人エドアルド・キヨソーネによって作られた原画を写真師丸木利陽が写真に調製したものであり、ある国の皇族に天皇の写真を渡すため、天皇にこの写真への署名を求めたところ、すぐにサインをしたところから、この写真が御真影となったことが紹介されている。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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