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宇野家貞について
質問内容
回答内容
山王山城は小原孫次郎入道信明が康安元年(1361)に山名時氏のために落城ののち、康正二年(1456)に宇野中務大輔家貞が再興して小原城と称し、次いで新免伊賀守貞重が明応二年まで居すという。(『美作国の山城』参考)
宇野氏は赤松氏一門といわれる。(『美作古城史』『美作諸家姓名約景図』参考)
『続群書類従第五輯下』の「赤松系図」2(p450~451)では貞範――満貞、頼則、持貞、家貞(中務少輔)、政顕とあり、貞範の子となっている。しかし「赤松系図」3(p461~462)では、貞範――顕則――満貞、則頼、成則、則親、持貞――家貞(従五位中務少輔)――政顕とあり、持貞の子となっている。
また、『美作古城史』では新免系図が載っており、貞範――顕則――満貞――家貞(実は甥宇野新三郎従五位下中務少輔播州宍粟郡作州吉野苫北二郡八ヶ庄備前和気郡の内三カ所領之播州鷹巣城作州高山城主康正二年より同國小原城居住延徳三年六月三日五十六歳諡真光寺殿松岩雲光大居士)――貞重(略 家貞の甥)――……となっている。
『私説美作略史』には著者が前述の赤松系図3を底本とし、竹内、間島、春名、新免、宇野、江見、豊福、各氏および高坂著者等を参考に「赤松氏略系図」(p73~76)を作っている。それには、貞範――顕則、頼則、貞時。頼則――満則、時貞、満貞(小原)、満利。時貞――家貞(慶松丸、中務少輔)、頼則(左馬之介)としている。満貞の甥が家貞としているのは新免系図と同じ。
同書の「長水城宇野氏略系図」(p381 播州長水城[宍粟郡山崎町五十波])では、頼則(号宇野)――持貞(越前守)――家貞(中務少輔)――貞重(新免伊賀守)となっており、持貞の子が家貞となっている。満貞については触れられず。
また同書「今岡の小原氏略系図」(p432)では貞範――持貞(赤松越後守)、小原孫次郎高家(満貞)(小原の元祖)――小原孫次郎大炊助保宗、小原大和守孫次郎保貞、となっており、そこでは家貞にはふれられていない。なお、著者は小原系図と赤松系図の比較により、満貞=小原孫次郎入道であるととなえている。
『美作古城史』(p227)では絶家となった小原家の「同家の過去帳が古町竹藤猪之助氏に保存せられて居り、その記中に文明十七年四月七日清光院殿道円大居士孫次郎入道と記されたものがある。これが小原信明のことであろうか」としている。
『大原町史』(地区史編P61)には、山王山城跡の記述に、「その後、康正二年(1456)、今度は赤松方の武将宇野家貞が播磨高田から入って城を修理した。これが山王山城である。宇野家貞は新免長重に嫁した妹の子を養子とした。これが宇野貞重で、後に新免伊賀守貞重と改めた。」とある。
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