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鉛筆削り器の歴史
質問内容
回答内容
・資料①には、「日本人が最初に目にしたのは明治の末にアメリカから輸入された手動式の鉛筆削り器です。写真のアメリカ製のもの(左ページ)の値段は不明、ドイツ製のものは60銭です。もりそば1杯2~4銭の時代ですから大変高価なものでした。」と記載がある。そして、1921(大正10)年ごろの「アメリカ製シカゴ印の鉛筆削り器」や1922(大正11)年ごろの「ドイツ製砲弾型鉛筆削り器」の絵や、「戦前のアメリカ製シカゴ印の鉛筆削り器」の写真が掲載されている。
国産の鉛筆削り器については、「国産の鉛筆削り器(卓上のものをシャープナーといいました)が作られるようになったのは、第二次世界大戦後、高度経済成長の時代です。三菱鉛筆がシャープナー第1号の販売を開始したのは1957(昭和32)年でした。これがその後鉛筆削り器の主流となっていきました。そして三菱シャープナーは1967(昭和42)年には電動式に進化しました。電動シャープナーは最初は高級品とされましたが、現在では価格も下がり普及品となっています。」と記載があり、発売当初のシャープナー(鉛筆削り器)の写真が掲載されている。
シャープナー(鉛筆削り器)の普及については、1960(昭和35)年10月12日に起きた、浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺された事件が深くかかわったことが記載されている。「この事件の反響で、「刃物追放運動」が全国的に広まりました。事件の1か月ほど前、警視庁では「刃物追放」の呼びかけを行っていましたが、この事件をきっかけとして運動が全国的に広がったのです。そして、鉛筆を削るための小型ナイフも「持たせない」対象となりました。この機会をとらえたのがシャープナー業界です。三菱鉛筆は、鉛筆シャープナー工業会(12社)の世話人となり、その年の暮れに、東京・大阪・名古屋の小中学校に2200台余りのシャープナーを贈りました。また翌年2月には「あぶない刃物はやめましょう」のことばと、ナイフ・鉛筆・シャープナーをデザインしたポスターを全国の小中学校に3万8000枚配布し、大都市の文房具卸店、小売店の店頭にもはりだしました。このキャンペーンを機にシャープナーは急速に普及していきました(『三菱鉛筆100年』)。」と記載されている。なお、出典の『三菱鉛筆100年』は当館に所蔵がないので、出典の確認はできない。
・資料②には、鉛筆削り器の歴史について、資料①と同様の記載がある。さらに、「シャープナーには、手でもつ携帯型とすえおき型があります。また、手でそうさする手動式と電気で自動的に鉛筆をけずる電動式があります。ただし、手動式は、けずったあとのカスが出るのでゴミ箱や紙の上で使わなければなりません。また、電動式が最初に登場した1955年(昭和30年)ごろには、鉛筆がけずれたころをみはからって、鉛筆を手で引きぬかなければならなかったものが中心でした。その後、電動式のシャープナーは改良されて、芯がけずれると自動的に刃の回転が止まるようになりました。」と記載されている。
・資料③には、鉛筆削り器の歴史についての記載はないが、2014(平成26)年に発売された「ラチェッタワン」という、新しい鉛筆削り器についての記載がある。この鉛筆削り器の特長は、「鉛筆をもった手を左に右に数回ひねるだけで、かんたんに鉛筆が削れます。」、「鉛筆をさしこむ穴には、鉛筆をさすとひらき、ぬくととじる特殊なふたがついていて、鉛筆の削りかすがとびちる心配がありません。」と記載されている。また、鉛筆を削るしくみ「ラチェット機構の原理」の解説や、2014年の日本文具大賞・機能部門のグランプリを受賞していることなども記載されている。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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