レファレンスデータベース > ホープ・ダイヤモンド
ホープ・ダイヤモンド
質問内容
回答内容
①『宝石の歴史』の「第2章宝石への道」「ジャン=バティスト・タヴェルニエのインドへの道」の項に、1669年初頭にフランス宮廷公認の商人タヴェルニエが、旅行から持ち帰った宝石をフランス王ルイ14世に売却したことが書かれており「それは非常に美しいブルーのダイヤモンドで、原石は112カラットの重さがあった。タヴェルニエはその石を「タヴェルニエ・ブルー」と名づけたが、フランス宮廷では長いあいだ「ブルーの大ダイヤモンド」とよんでいた」と、当時の状態・呼称が記載されている。その後、「ホープ」と名付けられた経緯とともに、1958年に最後の買い手であるアメリカの宝石商、ハリー・ウィンストンがスミソニアン博物館にホープダイヤを寄贈するまでの経緯が記載されている。また、「このダイヤモンドの所有者はみな、悲劇的といってもよいほど不幸な運命に見舞われている。」とも記載されているが、具体的なエピソードは紹介されていない。
写真は掲載されていないが、カラーイラストと、タヴェルニエがルイ14世に売ったダイヤモンドの目録の一部が図版で掲載されている。
②『世界の宝石文化史図鑑』には「ホープ・ダイヤモンド」の章があり、多くのカラー写真や図版とともに、タヴェルニエがインドでダイヤモンドを手に入れてから、複数の所有者を経て、ハリー・ウィンストンがスミソニアン博物館に寄贈するまでの経緯が記載されている。また、「ホープ・ダイヤは呪いのダイヤ?」の項には、「もちろん、呪われてなどいない!」として、「ホープ・ダイヤモンドは不運のダイヤモンドだという話が初めて活字になったのは、(ニューヨーク・ヘラルド紙によると)1908年1月19日付のワシントン・ポスト紙の記事だ。」とあり、「どうやら、ピエール・カルティエがセールス戦略として呪いの物語を強調していたらしい。」等、呪いのダイヤと呼ばれるようになったエピソードをいくつか紹介したうえで、「長い歴史を持つさまざまな品々と同じように、もっともらしい呪いの物語を作り上げようと思えば、いくらでも不幸なエピソードをみつけて誇張することができる。」としている。
③『宝石 欲望と錯覚の世界史』の「第4章フランス革命を起こした首飾り」に「フレンチ・ブルー・ダイヤモンド」の項があり、「巨大なサファイア・ブルーのダイヤモンドで、太陽光を受けると、かすかに怪しい赤色を帯びた光を放つと言われる。マリー・アントワネットのダイヤモンドのほとんどがそうだったように、これも呪われていたと言われる。」とされ、タヴェルニエがインドからダイヤモンドを持ち帰ってから、複数の所有者を経て、最後にハリー・ウィンストンがスミソニアン博物館に寄贈するまでの経緯が記載されている。また、具体的なエピソードとして、アメリカ人大富豪のエヴェリン・ウォルシュ・マクリーンの身に起こった出来事が紹介されている。ホープダイヤモンドの写真や図版は掲載されていない。
④『ダイヤモンドの語られざる歴史』の「第4章ホープダイヤモンド」には、カルティエが、エヴェリン・ウォルシュ・マクリーンに、過去ホープダイヤモンドの所有者に起こった不幸な出来事をいくつか語り、「不運をもたらす呪いの石です」と言ったエピソードと、その後ホープダイヤモンドを購入したエヴェリンの身に起こった出来事が記載されているが、「ホープがたどった歴史の大部分はきちんとした記録が残されていないため、今日でも学者や専門家のあいだで議論になっている。」「ホープの呪いの伝説を裏づける証拠はない。」とも記載されている。さらに事実としてわかっていることとして、ホープダイヤモンドがヘンリー・フィリップ・ホープの宝石コレクション目録に初めて登場してから、カルティエのもとにわたった経緯が記載されている。口絵には、ホープダイヤモンドのカラー写真が掲載されている。
⑤『スミソニアンは何を展示してきたか』「3 ホープ・ダイヤモンド-宝石・装身具・イコン」の冒頭では、ジャネット・ハバード・ブラウン『歴史の神秘 ホープ・ダイヤモンドの呪い』を引用して、所有者に凶事をもたらしたエピソードがいくつか紹介されている。さらに、「宝石としてのホープ・ダイヤモンド」「装身具としてのホープ・ダイヤモンド」「文化的モノとしてのホープ・ダイヤモンド」「近代民話におけるホープ・ダイヤモンド」「博物館のイコンとしてのホープ・ダイヤモンド」の項があり、多角的にホープ・ダイヤモンドが解説されている。本文中にホープ・ダイヤモンドの白黒写真と、金羊毛勲章にはめこまれたホープ・ダイヤモンドの白黒図版が掲載されている。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
カテゴリ情報
レファレンスデータベース > レファレンス事例データ > 岡山県立図書館 |