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倉敷紡績倉敷工場の堀割
質問内容
回答内容
資料①倉敷市のHP「倉紡西側の掘割/歴史資料整備室/倉敷市」には、倉紡西側の掘割の写真が掲載されている。また、参考として、昭和54年2月12日に撮影された美観地区周辺の空撮に堀割の位置が示されている。「この地(現在の倉敷アイビースクエア)は、江戸時代に倉敷代官陣屋が置かれ、周辺の幕府直轄領を支配する拠点となっていた。(中略)明治維新に際して一時期倉敷県庁が置かれたが、明治21年(1888)に倉敷紡績所が設立されるとその工場敷地として選定された」と書かれており、写真の堀割については、「現在は埋め立てられて残っていない。掘割の一部は、児島虎次郎記念館の側(トップ画像掘割の北側)にわずかに残っている」とある。
資料②『倉敷・過去・現在』には、倉敷市HPの写真とは別の写真で、「倉紡西側掘割り」と題した写真が掲載されている。ほぼ同じアングルで昭和16年撮影のものと平成3年12月撮影のものが並べられている。解説によると、「倉紡の工場は西側と南側が写真のような掘割りでかぎの手に囲まれていたが、戦後埋め立てられて、それぞれ道路になってしまった。」とある。
資料③『回顧六十五年』には、倉敷工場が建てられた土地の由緒が書かれており、明治維新に至るまで200余年間、幕府の直轄地を支配する代官所が置かれた、と書かれている。また、倉敷工場全景、同工場建物配置図が掲載されている。全景写真は白黒でお堀の有無は分かりにくいが、建物配置図では、工場の周囲に「用水■」(■は判読不能)と書かれているように見える。
資料④『絵図で歩く倉敷 コンパクト版』には、「倉敷紡績西側にあった堀割 時期不詳」とキャプションがついた写真が掲載されている。本文には、「倉敷紡績の西側には、代官陣屋の時代からの堀割が戦後まであったが、現在は埋められて道路になっており、アイビースクエアの中にわずかに堀割が残っている。」と書かれている。また、附録の「市制記念 昭和3年4月 倉敷市新地図」を確認すると、寄宿舎と面する東側以外は、工場の周囲が青く色づけされており、堀割があると思われる。
資料⑤『倉敷浅尾騒動記』には、倉敷代官所の濠について「南、西、北の三方は濠をめぐらして町屋と隔絶し、邸内に通ずるのは南の正門と、東門、西門の三か所であった。濠の幅は約3.5メートル、三つの門には石の欄干をしつらえた土橋が通じていた。」と書かれている。さらに、写真と共に「倉敷代官所西門附近の濠あと、昭和39年のはじめ、ここは埋め立てられてしまった。」とある。
資料⑥『倉敷アイビースクエア二十年史』の「第一章 倉敷アイビースクエア所在地のいわれ」の中に代官所建物と現在建物の配置関係図という図があり、建物の回りが用水で囲まれていることがわかる。また、「代官所遺構(現・倉敷アイビースクエア内)」とキャプションがついた代官所内濠遺構の写真が掲載されている。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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