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中川横太郎の家族
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回答内容
①『岡山県歴史人物事典』の中川横太郎の項目には、「明治時代の実業家・教育事業家。名は金次、のちに横太郎と改名。岡山藩士中川亀之進の子に生まれる。(中略)士族授産のため実弟杉山岩太郎と岡山紡績を設立するとともに、児島湾開墾を計画し「微力社」を興す。」と書かれている。杉山岩太郎の項目には、「明治時代を代表する実業家。岡山城下で岡山藩士中川亀之進の二男に生まれ、1859年(安政6)杉山家を嗣ぐ。幕末から明治にかけての変革の中で藩士及び官吏として務めたが、その後の実業家としての活躍は特筆に値する。(中略)岡山県の文明開化に力を尽くした中川横太郎は岩太郎の実兄である。」と書かれている。
②『郷土にかがやく人々 第5巻』に、「健忘斉中川横太郎」として取り上げられており、「横太郎には最初男の子が2人ありました。長男を「竪一」次男を「斜」と名付けました。」と書かれている。
③『岡山人名事典』の中川亀之進の項目には、「幕末の馬術家。岡山藩士。備前藩の儒官中川謙叔の後裔。」とある。中川謙叔の項目には、「江戸初期の漢学者。岡山藩士。若くして中江藤樹に学び、慶安3年、備前侯に仕える。」と書かれている。中川竪一の項目には、「洋画家。岡山の人。中川横太郎の子。(中略)母校岡山中学で図画教師をつとめた。肖像画に秀作多く『杉山翁夫妻』がある。」と書かれている。
④『藤樹先生全集 第5(別)冊』には、中川謙叔について取り上げられており、略系が掲載されている。「横太郎の嫡孫を来助といふ。」とあり、略系を確認すると、横太郎の長男である竪一の息子であることがわかる。
⑤『近代岡山の女たち』には、「横太郎の父と大西絹の父定静は兄弟であり、また絹の長姉ゆきが横太郎の妻でもあった。」と書かれている。
⑥『岡山の奇人変人』には、中川家や実弟杉山岩太郎についてのほかに、「芸者見習いの小梅というのが気に入り、妾にして囲っていたのだが、その彼女が、神戸の女学院へ入学したいと言い出し、そこを卒業させてやると、彼女は男女の不純関係を説いて、離縁を迫るようになった。(中略)のち石井十次の岡山孤児院の副院長になった炭谷小梅である。」と書かれている。
⑦炭谷小梅と中川横太郎については、お茶の水女子大学ジェンダー研究所の『シンポジウム「明治期のジェンダー、宗教、社会改良:炭谷小梅と中川横太郎」』にて詳しく書かれている。
⑧『岡山県名鑑』には、「中川横太郎先生」として、「先生の弟を岩太郎と云ふ出でて杉山氏を嗣ぐ。先生の長子は竪一家を継ぎ。先生は別家して士籍を脱し平民となり三男蕃其後を継ぎ、女豊青木氏に嫁す。」と書かれている。
⑨「大西操山雜記 : 縁故者としての見聞」(『日本文学』第14巻)には、横太郎の家族関係についても取り上げられている。横太郎の子女、竪一、斜、登與(豊)、蕃についての記述がある。
⑩『青木要吉追憶集』の中川来助が書いた「獅子の愛情」という文章の中に「私より1つ年下ではあるが、私の叔父に当る中川蕃」とある。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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