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かもじの始まり
質問内容
回答内容
①『黒髪と美女の日本史』では、「第5章 武家社会で認められた結髪」に、髢について「鬘が全体的な添え髪であるのに対し、髢は部分的な添え髪という違いはある。だが、どちらも地毛の足りない部分を補うための添え髪を意味している。髢は、鬘に女房言葉の表現として、文字がつけ加えられ、かもじとなった。」とある。また、永禄6(1563)年に来日したルイス=フロイスの著書『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波書店,1991)から「公方の家の日本婦人たちは四つか五つつぎつぎに繋ぎ合わせた鬘をつけ、三コヴァドも後ろの地上に曳きずって歩く」という記述を引用し、これは「髢を意味する。」としている。また、『故実叢書』「女房装束着用次第」の髢を着用した女性の図を掲載しているほか、『枕草子』や『源氏物語』における鬘(髢)の記述、『大上﨟御名事』に記載された髢のつけ方も引用されている。
②『黒髪の文化史』では、「お市の方と室町形「おすべらかし」」に、「足利義政の頃(一四五三~七二年)にはすでに『大上﨟御名事』に、長髢をつけて、いくつにも結び目を付けた髪風が紹介されていることから、御所ではすでにこれが行われていたことと考えられる。」とある。また、①と同様に『大上﨟御名事』に記載されている髢を用いた「おすべらかし」の結い方が引用されているほか、室町形大垂髪の図も掲載されており、図の説明として「『女官装束着用次第』から、平時の女官姿を模したもの」と記されている。
③『日本髪大全』では、3章の「平安時代~室町時代 垂髪の時代」で、「最も長く美しい髪を持っていたと伝えられる(中略)平安中期、類稀なる美貌で知られた」村上天皇の女御・藤原芳子について「『大鏡』によれば、女御が御所に向かう牛車に乗り込んだ折、髪の先はまだ母屋の柱の元にあったといいます。(中略)時には髢を用いて長く見せることもあったようです。」とある。また、鎌倉から室町時代にかけて、「平安期ほど地髪を長く伸ばすことはなく、必要に応じて髢を足して延長し、絵元結で結ぶようになりました。」とある。
④『日本の髪形と髪飾りの歴史』では、「平安時代の髪型」において、1314~55年の編記とされている『宋史日本伝』に、日本の僧からの贈り物として「髪鬘二頭」があり、また同書には「婦人はみな被髪」との記述があることを紹介している。これについて、「被る(かつぐ)という表現は、何かをすっぽり被ってしまうという意がある。髪を被る、ということは、かつらをかぶる状態にもとれるが、(中略)うねうねとした垂れ髪を表現したものと思われる。これを「かつら」と見てもよいわけだが、(中略)だからこの髪鬘は、「足し毛」と解釈した方が妥当と考えられる。」としている。
また、「自然の垂れ髪であるがために、黒く長く豊かである努力を惜しまず、その美の規準に近づくためには、「かもじ」や「足し毛」こそ、この時代の切実な必需品であったともいえる。この需要にこたえるためにも、(中略)技術的にも進んだ優秀な「かもじ」ができていたと考えてしかるべきである。」とある。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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