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織田信長と相撲
質問内容
回答内容
①『相撲』の「第一章 相撲史概説」には「5 歓進相撲」の項があり、「生業として」の中に「織田信長自身も何度も相撲を催していることが、軍記『信長公記』からわかる」と記述がある。また、「規模が大きかったのが、天正六年八月一五日に安土で催されたものだ。このときは、近江国や京都の相撲取をはじめ、一五〇〇名が出場した。」とあり、続けて「参加者のうち、すぐれた相撲取は信長に召し抱えられ、太刀や衣服、さらには領地を拝領する場合もあった」と記述がある。
②『戦国史料叢書 2 信長公記』の「巻十一(天正六年戊寅)」には「小相撲の事」の項があり、「寅八月十五日、江州国中京都の相撲取りを初めとして、千五百人、安土へ召し寄せらる」と記述がある。また、褒美については「のし付きの太刀・脇差衆御服かみ下、御領中百石宛私宅等」と記述がある。
③『大相撲史入門』の「Ⅰ 歴史」には「戦国時代の武家相撲」の項があり、「『吾妻鏡』以前と以後の落差」の中に「織田信長はことのほかの相撲愛好家で、元亀元年(一五七〇)から天正九年(一五八一)まで、たびたび相撲を催し、安土の城などでは千五百人も呼んで大規模な上覧相撲を催したことが『信長公記』に詳しく記録されている」と記述がある。褒美についての記述はなし。
④『スポーツの日本史』の「『武』のスポーツの時代へ」には「勇壮な武士のスポーツ」の項がある。その中の「相撲を愛した織田信長」の項には、「信長のもとに集まった相撲取の数は、天正六年(一五七八)二月には三〇〇名、同年八月には何と一五〇〇名を数えた」と記述がある。また、「表3 『信長公記』にみる織田信長の相撲見物」が掲載されており、実施年月日、場所、内容がまとめられている。褒美についての記述はなし。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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