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宮崎県の民謡「稗搗き節」が「悲恋の歌」と言われる理由
質問内容
回答内容
①『日本民謡大鑑 上』では、「宮崎の民謡」において「稗つき節」が紹介されている。「稗つき節」とは「東臼杵郡椎葉村で、古くから唄われていた労作唄が母体」であり、この地方が平家の落ち武者が隠れ棲んだ地であることに触れた後、「稗つき節」の題材となった話が記されている。その概要は、元久二年に源平の戦いで敗れた平家の残党討伐のため、鎌倉から椎葉に派遣された那須大八郎が、その土地にいた平家の娘である鶴富姫と結ばれ、平和な家庭を営んでいたが、貞応元年に鎌倉幕府より帰還命令が届き、「自分の子供まで宿した可愛い鶴富姫と別れ、一人鎌倉へ帰らねばならない」というもので、「この悲恋を唄いこんだのがこの〝稗つき節〟である。」としている。また、「最低の生活をしている者たちの食べ物である稗がゆを題材にし、さらに哀調に富んだ節まわしをもつこの唄は(中略)全国で愛誦され、踊られている。」と記されている。
②『民謡地図 7』の第五章では、「宮崎県椎葉村の「稗搗き節」」について触れられている。まず、恋の「唄問答」に用いられていた「稗搗き節」について述べ、その歌詞が椎葉にほとんど残っていない理由をいくつか挙げている。さらに、「「那須の大八 鶴富おいて(現在は「棄てて」) 椎葉立つ時ゃ 目に涙」の歌詞の出現で、旧来の歌詞がすべて追いやられてしまったのである。今日、宮崎県東臼杵郡椎葉村に伝わる「稗搗き節」といえば、一般の人たちが思い浮かべる歌詞は、(中略)源氏の那須大八郎と平家の鶴富姫の悲恋伝説を元にした歌詞である。」と記されている。この歌詞については、昭和の初めに各地で大流行していた「ご当地ソング」作りの流行に乗るようにして、宮崎県東臼杵郡南郷村生まれの酒井繁一が昭和4年に作ったことに触れ、酒井繁一本人の話による、歌詞をつくるきっかけが記されている。なお、酒井繁一が作詞する前年のこととして、「昭和三年(一九二八)には、椎葉村の「稗搗き節」が熊本放送局から電波に乗った。その折の歌い手、椎葉村の椎葉幸之助であった。」と記されている。
③『日本民謡事典 3』では、「宮崎県」の項目にて「稗搗き節」が紹介されている。「稗搗き節」は「東臼杵郡椎葉村の人たちが、立て臼に入れた稗を杵で搗く時に唄ってきたものである。のちに、「長友勝美節」が酒盛り唄に、「照菊節」がお座敷唄となっている。」として稗搗きの手順や様子などが記された後、「唄の履歴」がまとめられている。それによると、1929、1930年頃に椎葉村の椎葉幸之助と椎葉ひろ子がニットーレコードに吹き込んだ後、1940年に紀元2600年奉祝「日向建国博覧会」が宮崎市で催されることになり、「稗搗き節」のレコード化が企画されたこと、その際「歌詞も、農作業や村民の生活を唄ったものより、那須大八郎と鶴富姫の悲恋物語を前面に出して唄うようにした。」と記されている。
④『日本民謡大事典』には「ひえつきぶし 稗搗節」の項目があり、「もと平家の落人部落として有名な宮崎県東臼杵郡椎葉村地方で、常食とする稗を臼に入れて堅杵でトコトコ搗きながら歌った労作唄。(中略)この唄には那須与一の弟大八郎宗久と清盛の末裔である鶴富姫との悲恋物語も伝えられ、姫が宗久と生別してから夫恋しさのあまり歌い出したという説もあるが、むろん、そんな古い時代から存する唄ではなく、せいぜい江戸中期以降にできたものと思われる。」と記されている。また「現在残っている節は三種類あって」とし、その三つは「幸之助節」「長友節」、幸之助節を「やや遅くし、かつ民謡としての素朴さを失わないようにした旋律」としている。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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