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備前土管
質問内容
回答内容
①『和気郡史 通史編 下巻 2』では、「備前研究Ⅱ」(目賀道明)、『明治の備前焼』(桂又三郎)などを元に、備前土管製造の始まりについて説明されている。
それによると、「明治一八年(一八八五)に金重利三郎が『伊部商会』を創立し、尾張常滑から職人数十名を数次にわたって招き土管製造を始めた。これは、山陽鉄道(株)の鉄道建設用資材として目論んだもので、備前土管の嚆矢である。」とあり、「金重利三郎土管の碑」の碑文と写真が収録されている。
また、「伊部陶器会社」「伊部土管会社」「備前陶器(株)」「備前製陶(株)」が設立され、土管製造を行っていた旨が紹介されている。
それぞれの会社の設立年としては、「伊部村における土管会社の設立は、明治二九年(一八九六)創立・備前陶器(株)、明治三〇年(一八九七)ごろ創立・伊部陶器(株)、明治四二年(一九〇九)創立・伊部土管合資会社の三社である」とある。
②『和気郡誌』には「備前陶器株式会社」で製造されていた土管の細目が記されており、それによると「鉄道用土管」「水道用土管」「溜池立樋用土管」「耐酸耐塩基土管」「耐火土管」「電話地下線用土管」を製造していたことがわかる。
③『明治の備前焼』には、明治20年に金重利三郎が起こした「伊部商会」、明治29年木村氏などによって創立された「備前陶器株式会社」、明治30年ごろ河井定次郎がつくった「伊部陶器株式会社」、明治42年に柴田沢太郎を社長として創立した「伊部土管合資会社」について、会社の概要が説明されており、それぞれ土管製造をしていた旨が紹介されている。また、上記②と同じ土管の細目が記されている。
④『備前焼の系譜 続』には、「備前土管は江戸初期末から作られ始め、江戸中期になり土管窯を作って本格的に製造に取り組んだ。(中略)備前地方の寺社や旧家の屋敷跡からは、排水に使われた当時の土管がよく出土する。」とある。
続いて、明治18年に金重利三郎が土管製造を始めた旨が紹介され、「伊部土管は明治末に道路・鉄道の建設工事が盛んに行なわれだすのに伴い、需要が大きくなり、利益も上がった。この後伊部では土管製造のための会社作りが盛んとなり、これが煉瓦製造に発展し、(後略)」とある。
また、江戸中期の土管の写真、「常滑陶工の造った土管」の写真が掲載されている。
⑤『備前焼ものがたり』には、「備前焼の土管は江戸初期からつくられていた。」とあり、「江戸時代初めに築城された兵庫県の赤穂城」の城内と城下町に備前焼土管が用いられた旨が紹介されている。
また、「伊部商会」についても紹介されており、金重利三郎が招聘した技術者の出身地が常滑である理由などが説明されている。
その他、「備前陶器株式会社」について、「一八九六(明治二十九)年には木村市三郎、大饗千代松らによって」創設されたことや、「やがて土管の製造は次第に先細りになっていく。結局、ネックとなったのは備前の土。伊部の土は高価であったため、備前焼に使うのと同じ土で安い土管を焼いていたのではとても採算が取れなかった。」と記されている。
「山陽新報」の「伊部陶器株式会社」に関する記事や、伊部の路地で見られる土管の写真、土管窯の煙道に使われた土管の写真も掲載されている。
⑥『江戸時代の暮らしと備前焼』所収の「江戸時代の遺跡出土の備前焼-瀬戸内地域を中心に-」(乗岡実)には、備前焼の土管が「岡山城本丸跡に1896年(明治29)に建てられた旧制中学校の排水施設」や「岡山城本丸中の段の表書院中庭の泉水に伴う排水管と給水管」に用いられ、「赤穂城下」「明石武家屋敷」「兵庫津遺跡」でも報告されていると説明されている。
また、土管の図も掲載されている。
回答館・回答団体
岡山県立図書館
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