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大石内蔵助と岡山
しつもんないよう
かいとうないよう
・「大石良雄と岡山」(資料①)によれば、「内蔵助の実母くま女は、まぎれもなく備前池田藩家老池田出羽守由成(三万石)の末女」として「赤穂の大石家の当主良欽の嫡男良昭の許に嫁入って間もなく萬治二年(一六五九)長男良雄(のちの大石内蔵助)を生んだ」と解説する。また、「岡山には後楽園に大石が幼少のころ植えたといわれる『手植えの五葉の松』、内山下の水野屋敷(旧日赤病院の周辺)には『大石手植の銀杏』、野田屋町の天城屋敷にも手植えの松というのがあって大正のころまでは岡山の名物となっていた」と紹介している。
・『増補版 高梁市史 上巻』(資料②)の「水谷氏の改易」によれば、元禄6年に水谷家が断絶した際、赤穂藩主の浅野長矩が松山収城使を命ぜられ、大石内蔵助が城収使の家老として約一ヶ月半にわたり在番していたことが確認できる。
・『岡山秘帖』(資料③)の「岡山時代の大石良雄」では、大石良雄の次男(良時)と三男(唯直)の墓地が「岡山北部半田山山麓栗木林」にあり、「良雄は水野采女の屋敷に銀杏の稚木」を植え、「現在内山下に残る銀杏の古木が大石手植の銀杏と古来言ひ傳へられ、又天城邸に手植の松があつたが四十年前の落雷から枯死しその古株は大正の初年まであつた」とする。
・『岡山巷談』(資料④)の「銀杏水野今様小町」では、内山下にあった水野の屋敷に「大石手植の銀杏と云われて名高く、朝な夕な内山下の空を圧して、なつかしがられていたものだが、空襲後、措しくもその姿を消してしまつた」と説明している。
・『大石良雄の末裔』(資料⑤)では、大石家の子孫の系図とともに半田山の「大石家之墳墓」写真が掲載されている。
・「大石良雄手植への銀杏樹」(資料⑥)では、次の記事が見える。
岡山市内山下舊水野某の邸内にある銀杏樹は頗ふる巨大なる
ものにて某枝葉天日を支へ第三高等中學校醫學部の東北にあ
りて同校の目障りとなるに付き今度此れを截り例す筈なり然
るに此の大樹は大石良雄が嘗て手から栽へ附けたるものにて
人若し此れに觸るれば忽ち疾疫を得るよし云ひ傳へ居るを以
て誰一人此の截り例しを受負ふものなく殆んど其向にては困
却せるよし
かいとうかん・かいとうだんたい
岡山県立図書館
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