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墨の歴史
しつもんないよう
かいとうないよう
下記のとおり、①『書写なんでも百科 9 筆はどうできてるの』には、中国と日本の墨の歴史、墨液についての記載がある。②『シリーズ日本の伝統工芸 6 墨・筆』には、日本の墨の歴史と鈴鹿墨、奈良墨についての記載がある。③『調べてみよう!日本の伝統工芸のみりょく 6 住にかかわる伝統工芸 2』には、墨液と墨の歴史、奈良墨についての記載がある。
なお、①~③よりも詳しい内容については、児童書ではないが、④「JapanKnowledge Lib」(館内閲覧データベース)で検索すると、「墨」の項目に中国と日本の墨の歴史が記載されている。
①『書写なんでも百科 9 筆はどうできてるの』には、「墨を発明した人はわかっていません。でも、「墨」の字は、すすの意味の「黒」と、「土」からできていますし、紀元前一五〇〇年ごろの中国(殷の時代)の古い都のあとから、墨で書いた文字のような絵がみつかっていますので、墨は中国の古代からあったようです。はじめは、石墨とよばれる黒い石や、けし炭を使っていましたが、やがて、松をもやしたすすを、だんごのようにまるめて使いだしました。そして、紙の発明などで墨の利用がふえたため、二〇〇年ごろから、いまのような墨がつくられるようになりました。墨の作り方が日本につたえられたのは、七世紀ごろのようです。」と記載されている。
さらに、墨液について、「容器から硯にだして、すぐに使えるのが墨液です。墨汁とよぶ人もいますが、ほんとうはちがいます。昭和三〇年ごろ、和紙には不向きだった墨汁にかわって、墨液がつくられました。墨液は、石油からつくられていますが、手づくりの墨にすこしでもちかづくように、研究やくふうがされています。」と記載がある。
②『シリーズ日本の伝統工芸 6 墨・筆』には、「墨づくりの技術は『日本書紀』によると、朝鮮(高句麗)の僧「曇徴」が紙の製法などとともに日本に伝えたといわれていますが、古墳時代の壁画などには、墨らしいものが使われているため、もっと早い時期に外国から伝わっていたのではないかと考える人たちもいます。」とあり、「むかしは、松材を燃やして煤を採っており、奈良が墨づくりの中心地でした。しかし、現在は奈良とともに鈴鹿が墨の産地として知られて」いることが記載されている。
鈴鹿墨については、「鈴鹿墨が最初につくられたのは延暦年間(七八二~八〇六年)ともいわれ、鈴鹿の山々で採れた肥松という松を燃やして、その煤を採り墨をつくったと伝えられています。鈴鹿では、墨づくりの職人として奈良で働く人が多かったために、その経験と技術を、ふるさとに伝える人が増えて、江戸時代には広く知られるようになり、明治初期には伝統産業としての基礎が確立しました。現在は、奈良墨とともに、貴重な墨の産地です。」と記載がある。また、「現在では煤を採るのに松材のほかに植物油・鉱物油なども燃やして煤を採ります。その煤に、ニカワ、香料を練り合わせてつくられています。」と記載がある。
奈良墨については、「天平時代のころよりつくられていたといわれています。15世紀には興福寺でつくられたのが始まりともいわれ、現在は松材のほかに菜種油、椿油なども燃やして煤を採っています。その煤に、ニカワ、香料を練り合わせてつくられています。固形の墨のほかに墨汁もつくっています。」と記載がある。
③『調べてみよう!日本の伝統工芸のみりょく 6 住にかかわる伝統工芸 2』には、墨液について「文字や絵をかくためにつかわれる。学校などでつかわれている液体状の墨は、1960年代に発明され、広まったもの。それまでつかわれてきた伝統的な墨は固形で、すずりですってつかう。」と記載されている。
墨の歴史と奈良墨については、「いまの中国で生まれた墨が日本に伝わったのは、いまから約1400年前のことです。奈良時代には、仏教の中心地だったいまの奈良市で写経や学問につかう墨づくりがさかんになりました。墨の材料となるすすは、もとはマツをもやしてつくっていましたが、室町時代初期に興福寺で植物油のすすを材料にした油煙墨がつくられるようになりました。油煙墨は墨の色が濃く、つかいやすかったことから、奈良墨とよばれて全国に知られるようになりました。いまでは全国でつくられている墨の約90パーセントを奈良墨がしめています。」と記載されている。
さらに、奈良墨については、「奈良県奈良市で、約1300年前からつくられている墨です。つやのある濃い黒色がとくちょうで、おもに書道や日本画をかくためにつかわれています。かおりをつける香料がねりこまれていることから、するとよいかおりがします。また、きちんと保管すれば何十年もつかいつづけることができます。」と説明がある。
④児童書ではないが、「JapanKnowledge Lib」(館内閲覧データベース)にて「墨」をキーワード検索すると、「日本大百科全書(ニッポニカ)」の記載がヒットする。そして、「中国の墨(唐墨)」について、「J・アンダーソンの発掘した新石器時代の土器や殷(いん)代の甲骨、陶片に墨書したものがあり、木簡や帛(はく)にも墨が用いられているが、古代の墨がどのようなものであったかは判明していない。現在のように膠(にかわ)を用いて炭素の粉末を固めたのは漢代になってからである。(中略)漢代では松を燃してその煙からとった炭素を用いた松煙墨(しょうえんぼく)が石墨とともに用いられていたことがわかる。晩唐時代には李(り)超、李廷珪(ていけい)といった墨匠の名が伝えられ、わが国の正倉院には唐代の松煙墨が収められている。このころからしだいに、桐油(とうゆ)からとった油煙墨(ゆえんぼく)もつくられ始めた。明(みん)時代は造墨の盛んなときで、上質の墨が多数つくられた。清(しん)朝に入って墨の質は低下したが、乾隆(けんりゅう)年間にはふたたび隆盛期を迎えた。清代の代表的な墨匠に程君房(ていくんぼう)、曹素功(そうそこう)、胡開文(こかいもん)があり、明治初期からわが国にも大量に輸入されて、唐墨とよばれて当時の文人に用いられた。」と記載されている。
「日本の墨(和墨)」については、「『日本書紀』巻20に「推古(すいこ)天皇18年春3月、高麗(こま)王、僧曇徴(どんちょう)を貢上す。曇徴よく紙墨を作る」とあるが、実際にはそれ以前に製墨法が伝来したと思われる。平安初期の『延喜式(えんぎしき)』には油煙による造墨法が記され、造墨長1人が4人の造墨手を使い、長さ五寸幅八分の墨を年間四百挺(ちょう)生産したとある。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』巻三に後白河(ごしらかわ)法皇熊野詣(もう)でのおりに、紀州藤代(ふじしろ)の宿において松煙が献上され試用された記事がみえるが、これは和墨に関する唯一の文献とされている。」と記載されている。
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