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上原太夫
しつもんないよう
かいとうないよう
①[越谷吾山]『物類称呼』
p.27
「陰陽師 をんみやうじ をんやうじと唱ふ 然ともをんみやうじとよむ也 〇備州にて かんぱらといふ」
②『吉備之志多道』
ページ記載なし
「夕部山 下原村・・・(略)下原村ノ北ニ上原村ト云アリ此所陰陽師一邑ヲナス土人上原相人ト称ス・・・」
③『我が国民間信仰史の研究 2 宗教史編』
p.532
「『物類称呼』の陰陽師の條に「備州にてカンバラといふ、京にてシャウモジといふ」とあるが、『備中話』下道郡上原村の條に、此地陰陽師一村をなし群居す、世人これを「上原相人(かんばらさうにん)と称す。・・・『備陽志』には陰陽師の頭を結城越後といふ、安倍晴明末孫のよし。」
④『撮要録 上巻』
p.1107
「陰陽師・・・(略)寛文八年 土御門家・・・(略)備中富原陰陽頭 結城越後殿」
p.1108「他国逗留日数定 貞享三寅閏三月十七日 一、富原陰陽師共備前備中両国之内日数四五日迠之逗留候庄屋手前にて相改出入致させ可申候」「富原陰陽師共只今迠他国江参日数廿五日・・・」「備中富原之陰陽師共旦那寺上原村禅休庵・・・」
⑤『備陽記』
p.407-408
「下道郡上原村 枝富原」「一家数百十九軒内七十軒陰陽師」「一村中ニ阿弥陀堂アリ一男女八百卅七人内四百卅人陰陽師」「一此村土御門殿ノ下流陰陽師数多居住ス廿ヶ年計以前マテハ正月ニ万歳ヲ云方々廻リ候得共土御門殿ヨリ祈祷ノ外ハ法ニ非ズトテ近代止メ陰陽師頭結城越後ト云安部晴明末孫之由陰陽師ハ祈祷シ狐付キヲ落シテ渡世トス」
⑥『吉備群書集成 第3輯 戦記部』
p.220
「安部晴明が末孫越後守結城秋氏と申す博士を、上野近江守に遣し・・・」
⑦『備中町史 民俗編』
p.277-278
「・・・そういう専門家として迎えられ、村をめぐった人たちには、巫女、さお、法者、陰陽師、こんがら、かんばら、山伏などとよばれるものがあった。」「そういう集団としての備前のコンガラ、備中のカンバラ、熊野、大山の下山権現・・・」
⑧『興除村史』
p.602-603
「高原太夫(かんばらだゆう) 高梁(たかはし)の奥の高原(かんばら)から祈祷に来たものらしく、毎年、秋の収穫が終るころから、桑田を定宿にして、各家々に回って祈祷(おいのり)をしていた」
⑨『備中誌 下編』
p.1367-1368
「廃寺 桃源院 上原村に有 禅宗井山末也今はなし此地に陰陽師一村をなし群居す世人是を上原相人といふ」
⑩『笠岡諸島の民俗 振興離島民俗資料緊急調査報告書 1』
P.62
「カンバラは春秋に2人組で来て家ごとに廻り祈とうした」「吉備郡神在村の吉原線太郎という人が来た。笠岡市大島村からも来た」
⑪『藤田村史』
p.605
「高梁の奥の高原から祈祷師が来て「おどくうさま」を拝んだり、病人のうちで家祈祷をしてもらった。」
⑫『岡山県大百科事典』
p719-720
「かんばらだゆう 上原太夫」「昔は精神病その他の難病になると<憑きもの>即ち狐、犬神、蛇などがその病人についているとして陰陽師を呼んで<憑きもの>を追い出す祈祷をしてもらった。これをカンバラをうつという。・・・」
⑬『矢掛町史 民俗編』
p.238-239
「31 法者 かんぱら」「若林ではまんが悪いと総社のかんぱらを頼んできて、のりだいに亡霊をのりうつらせて、そのざんげをきいた。・・・」
⑭『池田家履歴略記 上巻』
p.514
「扨、備中下道郡上原下村結城越後・・・(略)土御門殊に大慶、已後、結城、高原、前田、田中、高橋五人を備前陰陽師頭とすへき旨を・・・(略)」
⑮「民間陰陽師の宗教活動」
p.92
「この陰陽師博士は近世から近代にかけて、下道郡上原村枝富原(現・総社市富原)を根拠として、主に病気の旧悪を懺悔する祈祷をおこない、それをカンバラ祈祷と別称されて・・・」
⑯「近世土御門家の陰陽師支配と配下陰陽師」
p.64
「・・・陰陽師高本家文書には、一備中下道郡富原陰陽師土御門殿御末流高本摂津(陰陽師姓名)村々・・・下道郡富原陰陽師触頭 長谷川美濃・・・」
⑰『岡山県史 第15巻 民俗 1』
p.632-633
「上原大夫 上原大夫(かんばらだゆう)の名は県の中南部地方から瀬戸内の島々につたえられているものであり・・・古くは上原相人(かんばらそうにん)と呼ばれた陰陽師であり・・・」
⑱『北房町史 民俗編』
p.386-387
「上原大夫 北房町には明治の末ごろか大正の初めごろまで総社から上原大夫がきた。」
⑲『岡山民俗 柳田賞受賞記念特集』
p.44-66
上原太夫の歴史、別称、祈祷の方法や効果、地域別の特色、関連する文献などが紹介されている。
⑳『総社市史 民俗編』
p.468-479
上原太夫の歴史、別称、祈祷の方法や効果、地域別の特色、関連する文献などが紹介されている。
㉑『鴨方町史 民俗編』
p.347-348
「カンバラ祈祷 六条院中では、玉島の沙美あたりから上原大夫を頼んできたらしい。・・・」
㉒『下庄風土記』
p.164
→「神ばら 神葬る(かんはふる)が訛ったものと思われる。昔は病人が続出したり牛馬が病気したり又災難が続くと「神ばら大夫(祠官)を頼んで、ご祈祷をしたものである。・・・」
㉓『牛窓町史 民俗編』
p.885-886
「カンバラの祈祷 現在では見られないが、かつてはカンバラないしカンパラと呼ばれる職能者が活動していた・・・。」
㉔『金光町史 民俗編』
p.564-566
「上原大夫が行なう祈祷をカンバラギトウ(上原祈祷)という。・・・」
㉕『晴明伝説と吉備の陰陽師』
p.193-268
上原大夫と土御門家・池田藩との関係を中心に説明がされている。
㉖『陰陽師 安倍晴明の末裔たち』
p.46-89
上原太夫のルーツ、祈祷の方法、職分の変遷などがわかる。
㉗「正宗白鳥の上原太夫」
p.25-31
正宗白鳥が小説『金庫の行くへ』で取り上げた上原太夫ついての解説がある。
㉘「吉備真備と陰陽道」
p.66
安倍晴明が住んでいたとされる金光町占見の上原太夫について説明されている。
㉙『岡山の庶民信仰 くらしの中の神・仏』
p.64
上原太夫の解説のほか、「上原太夫身分証明書」(文政13年)、「上原太夫掟書」(享保21年)と(文政8年)の2枚、上原太夫の家に誕生した女児の初節句に他の上原太夫から贈られた「てまり」の写真が掲載されている。
㉚「岡山県のオドクウ様に関する調査・研究-岡山市東区上道北方・鏡野町真経の事例を中心に-」
p.206-207
上原太夫の祈祷の方法について解説がある。
かいとうかん・かいとうだんたい
岡山県立図書館
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