戦後の活動 A.G.Oを率いて
戦後坂田は昭和24年(1949)7月若い画家達に呼びかけて「前衛岡山美術協会(アヴァン・ギャルド・オカヤマ)A.G.O」を立ち上げます。
日展などのアカデミズムや戦前の既成画壇が再び中心になろうとする岡山の洋画界に、新しい息吹を吹き込み、ひいては東京進出も目指す意欲を持っていました。
1955年まで4回の展覧会を開いています。
坂田一男の遺産
坂田は周囲に集まってきた若い画家達に、「前衛は無位無冠。」「鮮度100%のオリジナルであれ。」「模倣は絶対してはならぬ。」「あなたは上手すぎる。もっと下手になりなさい。」と語りかけました。
いずれも画家としての心構えで、制作に当たっての技術指導ではなく、借り物でない自分自身の表現を追求するように激励しています。
「芸術は自由な創造という観点から理解されなければならない」という坂田の考えは、依然として印象派風の風景描写や人物表現など現実の模倣を土台にして描いていく当時の絵画とは大きくかけ離れており、坂田は権威に従うアカデミズムを厳しく排撃しました。
坂田一男は日本の近代洋画に欠けているものを、困難な状況の中、開拓者精神を持って追求し、大きな遺産を残しました。
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