昭和8年(1933)に帰国するのですが、携えていたのはトランク一つきりで、油彩の作品は1点も持ち帰りませんでした。現在パリ時代の作品は30点ほど日本にありますが、これらは坂田の没後に日本の画商がフランスで発見し持ち帰ったものです。
坂田は叔父の坂田貢の干拓事業を手伝うなどしながら、倉敷市玉島にアトリエを構え制作を続けました。中央画壇を目指さなかったのは、自分の抽象絵画は当時の日本には受け入れられないと見ていたためで、孤独に造形の探求を続けました。
坂田は生涯独身でしたが、かつて坂田家の女中として働いていた三宅トメさんがハウスキーパーとして身の回りの世話をしてくれました。
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