正調&ニューバージョン さあ踊ろう、哀愁の〝カッカラカ〟 |
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玉野まつりとカッカラカ(約1分) 正調カッカラカの踊り方(約2分) カッカラカ・ニューバージョン(約2分) |
素朴で単調な音色、哀愁をおびた節回し――。 カッカラカは江戸時代前半から児島半島一円で踊り継がれ、昭和57年(1982)、正調カッカラカは玉野市の無形文化財に指定されました。 カッカラカの伝統と文化を受け継ぎながら平成10年(1998)にはリズムをハイテンポにアレンジした新しい踊りカッカラカのニューバージョンが誕生。 力強い太鼓のリズムとエレキギターの軽快なビートは踊り手の心をつかんで離しません。今では玉野まつりの踊りに採用され若者を中心に踊られています。 ―企画・監修 玉野市観光協会/平成12年―
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太鼓の響きに宿る鎮魂の祈り・・・。 |
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日比地区のカッカラカ 撮影:平成29年(2017) |
市内各地に息づく〝カッカラカ〟盆の夜、広場の中心にやぐらを組み、その上で太鼓をたたきながら番傘をさした音頭とりが口説きを唄いあげる――。これが古くから伝わる玉野市の盆踊りカッカラカの象徴的な光景です。 太鼓の調子や踊り方などは地区によって若干の違いはあってもほとんど同じですが、なぜか、田井地区にはリズムが顕著に異なるカッカラカが伝承されています。 (クリックすると『岡山県玉野市観光情報サイト』のページが開きます。) |
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明神鼻の孝行娘供養向日比港の南端、港を一望できる〝明神鼻〟と呼ばれる岬に、ひっそりとたたずむ祠があります。「お菊明神」と記され側面には「天保十四(一八四三)年 氏子中世話人 与吉良 繁造 清五良」の文字が・・・。江戸時代、向日比にお菊という娘がいました。漁師だった父親は女房を亡くしたさみしさのあまりに毎日酒ばかり飲み、一家はとても貧しい生活を送っていました。 働き者のお菊は地元では評判の孝行娘でしたが、ある晩父親と口論になりました。父親は「子供のくせに、親に逆らうとは」と怒り、酒の勢いもあってお菊を海に投げ込んだのです。 お菊はこの乱暴な仕打ちが原因で間もなく死んでしまいました。村人はお菊がかわいそうでかわいそうで、誰からともなく、お菊の霊を慰めようと祠を造り祀りました。 その後、村人は船の安全と大漁を合わせ願い、村の神事として行うようになり、それは今も毎年5月と10月に地区の行事として続けられています。 これに加えて、向日比地踊り保存会では、お菊の供養のため、毎年8月14日に会員が祠を訪れ、お菊の伝承を題材にした口説きに合わせてカッカラカを踊っています。 (参考:山陽新聞 平成27年〈2015〉8月16日) |
撮影:平成30年(2018)8月 |
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撮影:平成29年(2017)8月 |
常山の「女軍」供養祭「戦ばなしの数ある中で ここに説きだす物語り 常山城の一戦は世にもまれなる女軍のほまれ いまに伝わる落城哀史」・・・。毎年8月になると玉野市内の各地で踊られている地踊りカッカラカに謡われる常山女軍の秘話。これに登場する常山城の跡は玉野市と岡山市南区(旧灘崎町)にまたがる常山山頂に残っています。 天正3年(1575)、中国地方の覇権をめぐる織田家と毛利家の争いに巻き込まれ、常山城は毛利勢に攻められました。落城を前に、城主上野隆徳の妻・鶴姫が侍女34人と敵陣に切り込み奮戦しましたが、その後、城に戻り自害したと伝わっています。 毎年8月に行われる供養祭では、地元住民や玉野地踊りメンバーらが中心となり、カッカラカと住民が作った〝常山女軍の歌〟の踊りが奉納されています。
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(出典:山陽新聞 平成20年〈2008〉8月25日)
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