読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
あさいつつはん |
朝五つ半 |
午前8時半頃(時鐘打数法)。朝五つは十二辰刻では辰(およそ午前7時〜9時の間)の正刻。 |
54 |
あしがる |
足軽 |
江戸時代は武士の最下位。平常は雑役にしたがい、戦時には歩卒(歩兵)となった。 |
37 |
あとおさえ |
跡押 |
後押え。行列の最後につく警護。 |
45 |
あべ・いせのかみ |
阿部伊勢守 |
備後国福山藩主。 |
7 |
あまがさき |
尼崎 |
摂津国尼崎藩城下の尼崎宿。幕府は京街道(伏見宿〜守口宿)を東海道として公認、接続する中国路(山陽道)の公式ルートは大坂を起点に尼崎宿を経由し西宮宿へ通じた。参勤交代は脇街道の山崎通(やまざきみち、通称は西国街道、山崎宿〜西宮宿)の利用が多かった。 |
42 |
あんどう・しちろうだゆう |
安東七郎大夫 |
岡山藩士。公儀使(江戸留守居):享保6年6月〜元文2年1月(1721-1737)。 |
1 |
いいづか |
飯塚 |
筑前国飯塚宿(福岡県飯塚市)―木屋瀬宿(同、北九州市八幡西区)― |
19 |
いえつ |
畏悦 |
書状などで、とくに目上に自分の喜びをいう語。恐れ入りつつ喜ぶこと。 |
23 |
いかるが |
いかるか |
備前国片上宿(岡山県備前市)――播磨国有年宿(兵庫県赤穂市)―鵤宿(同、揖保郡太子町)―御着宿(同、姫路市)―大久保(兵庫県明石市、明石宿の本陣は大蔵谷町と大久保村にあった)―― |
20 |
いぎ・ぶんご |
伊木豊後 |
岡山藩家老(3万石)。享保8年5月5日〜延享4年7月28日(1723-1747)御仕置役。 |
8 |
いけだ・かなと |
池田要人 |
岡山藩士。享保9年(1724)7月小仕置(こしおき)から中老。享保13年8月藩主参勤にお供して江戸在勤、享保14年藩主帰国のお供で4月6日江戸出立、日光社参をへて中山道で4月24日帰国。 |
22 |
いこま・きざえもん |
生駒喜左衛門 |
岡山藩士。公儀使(江戸留守居)添役:享保13年5月〜享保15年3月(1728〜1730)。 |
24 |
いさはや |
諫早 |
肥前国矢上宿(長崎県長崎市矢上町)―諫早(同、諫早市)―大村宿(同、大村市)―彼杵宿(同、東彼杵郡東彼杵町)―武雄(佐賀県武雄市)― |
19 |
いたくら |
坂倉 |
備後国尾道宿(広島県尾道市)―神辺宿(同、福山市神辺町)――備中国矢掛宿(岡山県小田郡矢掛町)―坂倉宿(同、岡山市吉備津)――備前国宿村(同、岡山市東区古都宿こずしゅく)― |
20 |
いたくら・えもんのすけ |
板倉右衛門佐 |
備中国庭瀬藩主。 |
7 |
いたくらえもんのすけ |
板倉右衛門佐 |
備中国庭瀬(にわせ)藩主、板倉昌信(しげのぶ)。2万石。陣屋は賀陽郡庭瀬村、岡山市北区庭瀬。 |
87 |
いたくらむら |
板倉村 |
備中国賀陽(かよう)郡、庭瀬(にわせ)藩領。宮内(みやうち)村の北西、山陽道が東西に抜け、松山(まつやま)往来が北西へ、庭瀬への道が南へ分岐する交通の要地。備前との国境近くに宿駅があり、西の川辺(かわべ)宿まで3里、東の岡山宿まで2里12町。 |
87 |
いたぶかずら |
いたぶ葛 |
いたびかずら(崖石榴)の異名。クワ科の常緑蔓性低木で暖地の崖や石垣などに這い上がる。夏、小形のイチジク状の花序を多数つけ、秋熟すと紫黒色になり甘い。 |
18 |
いちじゅうごさい |
一汁五菜 |
飯と汁、野三菜三品からなる献立。もとは本膳料理の膳立てで飯と汁、香の物のほかに、膾(なます)・坪(つぼ)・平皿(ひらざら)・猪口(ちょく)・焼物の五菜を添えたもの。 |
51 |
いちじゅうさんさい |
一汁三菜 |
飯と汁、菜三品からなる献立。もとは本膳料理の膳立てで飯と汁、香の物のほかに膾(なます)・平皿・焼物の三菜を添えたもの。 |
40 |
いちのみや |
一ノ宮 |
岡山藩領、津高郡一之宮村。吉備の中山の北東麓、集落は備前一宮吉備津宮(現吉備津彦神社)の門前に発達した。山陽道が通り街道沿いに茶屋が並んでいた。 |
79 |
いとういずのかみ |
伊東伊豆守 |
備中国岡田(おかだ)藩主、伊東長詮(ながとし)。1万342石、陣屋は下道(しもつみち)郡岡田村、倉敷市真備町。 |
86 |
いば・へいない |
伊庭平内 |
岡山藩士。小仕置(こしおき):享保2年7月〜享保16年7月(1717-1731)。 →番頭 |
33 |
いり |
入 |
ここでは、奥行(おくゆき)のこと。「横」は間口(まぐち)を指す。 |
12 |
いりえ・きゅうざえもん |
入江久左衛門 |
岡山藩士。寺社町目付:宝永7年11月〜享保18年8月(1710-1733)。 →町会所 |
46 |
うしづ |
牛津 |
肥前国牛津宿(佐賀県小城郡牛津町)―神埼宿(同、神埼郡神埼町)―田代宿(同、鳥栖市)――筑前国山家宿(福岡県筑紫野市)― |
19 |
うちの |
内野 |
筑前国内野宿(福岡県飯塚市)― |
19 |
うつり |
移り |
ここでは、伝える、の意。 |
21 |
うどん |
温飩 |
漢音読みはうんどん(うんとん)。うどん(饂飩)のこと。どちらの読みであったかは不明。 |
88 |
うね |
有年 |
備前国片上宿(岡山県備前市)――播磨国有年宿(兵庫県赤穂市)―鵤宿(同、揖保郡太子町)―御着宿(同、姫路市)―大久保(兵庫県明石市、明石宿の本陣は大蔵谷町と大久保村にあった)―― |
20 |
うまのなかこく |
午中刻 |
江戸時代の時法(十二辰刻)では、午刻はおよそ午前11時から午後1時のあいだの時刻。午の中(正)刻は正午、時鐘打数法では昼九ツ。 |
81 |
えいこういんさま |
栄光院様 |
藩主池田継政の母。継政の父池田綱政の側室。 |
23 |
えちがわえき |
越知川駅 |
五街道の一つ、江戸日本橋から京都に至る中山道(なかせんどう)の近江国愛知川(えちがわ)宿。享保14年(1729)4月帰国道中の岡山藩主一行は17日同宿泊り。随行の池田要人書状の日付4月20日は西宮宿泊り。 |
73 |
おおいがわ |
大井川 |
静岡県中央部、駿河・遠江の境を流れ駿河湾に注ぐ大井川の渡しは、江戸時代には架橋・渡船が禁じられ、川越(かわごし)人足を雇い、肩車や輦台(れんだい)で渡った。水位が5尺(約1.5メートル)になると川留(かわどめ)となった。 |
29 |
おおかわ |
大川 |
ここでは、高梁(たかはし)川を指す。 →河(川)辺。中嶋渡場 |
87 |
おおくぼ |
大久保 |
備前国片上宿(岡山県備前市)――播磨国有年宿(兵庫県赤穂市)―鵤宿(同、揖保郡太子町)―御着宿(同、姫路市)―大久保(兵庫県明石市、明石宿の本陣は大蔵谷町と大久保村にあった)―― |
20 |
おおくぼ・おかえもん |
大久保岡右衛門 |
岡山藩士。公儀使(江戸留守居):享保13年4月〜延享4年4月(1728〜1747)。 |
24 |
おおくぼ・しもつけのかみ |
大久保下野守 |
下野守忠位(カ)。享保元年2月12日〜享保8年11月15日(1716-1723)勘定奉行、跡役は留守居。 |
1 |
おおさか |
大坂 |
摂津国兵庫宿(兵庫県神戸市兵庫区)―西宮宿(兵庫県西宮市)―大坂(大阪府大阪市) |
20 |
おおじょうや |
大庄屋 |
岡山藩では宝永4年(1707)に大庄屋制を復活、郡別に10〜20か村前後の管轄区域を設けた。村方役人の最上位に大庄屋をおき、藩の郡方支配役人のもとで管内名主(なぬし)の民政を統轄させた。 |
45 |
おおつ |
大津 |
五街道の一つ、東海道大津宿。草津(くさつ)宿と伏見(ふしみ)宿の間、琵琶湖南端の交通の要衝で幕府領。東海道は江戸日本橋から京都までの街道と、大津より分岐し伏見宿から大坂に至る街道。中山道は東海道と重なる草津・大津二宿を加えるのが通例。享保14年(1729)4月帰国道中の岡山藩主一行は18日大津宿泊り、19日伏見宿泊り。→越知川駅。尼崎 |
72 |
おおむら |
大村 |
肥前国矢上宿(長崎県長崎市矢上町)―諫早(同、諫早市)―大村宿(同、大村市)―彼杵宿(同、東彼杵郡東彼杵町)―武雄(佐賀県武雄市)― |
19 |
おがた |
小方 |
安芸国小方村(広島県大竹市)―廿日市宿(同、廿日市市)―海田宿(同、安芸郡海田町)―西条四日市宿(同、東広島市)――備後国沼田本郷宿(同、三原市)― |
19 |
おごおり |
小郡 |
周防国小郡宿(山口県山口市)―宮市宿(同、防府市)―富田宿(同、新南陽市)―呼坂宿(同、周南市)―柱野村(同、岩国市)―― |
19 |
おのみち |
尾道 |
備後国尾道宿(広島県尾道市)―神辺宿(同、福山市神辺町)――備中国矢掛宿(岡山県小田郡矢掛町)―坂倉宿(同、岡山市吉備津)――備前国宿村(同、岡山市東区古都宿こずしゅく)― |
20 |
おばた・ごんない |
小畠権内 |
岡山藩士。大小姓頭:享保13年9月〜享保18年9月(1728-1733)。 |
28 |
読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
かいた |
海田 |
安芸国小方村(広島県大竹市)―廿日市宿(同、廿日市市)―海田宿(同、安芸郡海田町)―西条四日市宿(同、東広島市)――備後国沼田本郷宿(同、三原市)― |
19 |
かきはん |
書判 |
文書の後に自筆で書く判。署名、サイン。 |
7 |
かきやちょう |
柿屋町 |
外堀の「山崎町口(御)門」(番所あり)の西に続く山陽道南側の片側町。南は薬師院と岡山寺。山陽道はこの町で北に折れ山崎町を通る。 |
44 |
かせ・はちべえ |
加世八兵衛 |
岡山藩士。郡代:享保6年6月〜享保14年11月(1721-1729)。 |
14 |
かたかみ |
片上 |
備前国片上宿(岡山県備前市)――播磨国有年宿(兵庫県赤穂市)―鵤宿(同、揖保郡太子町)―御着宿(同、姫路市)―大久保(兵庫県明石市、明石宿の本陣は大蔵谷町と大久保村にあった)―― |
20 |
かたがみばし |
片上橋 |
山陽道は旭川の三橋を渡り東へ、小橋(こばし)町から南北に走る街道沿いに発達した両側町を通り城下出入口の森下(もりした)町へ続く。その間、上片上(かみかたがみ)町と古京(ふるぎょう)町との境の小川にかかる橋であった。 |
44 |
かちのもの |
歩行之者 |
かちのもの。徒(かち)。歩いて主君の供をする侍。士分の侍でも徒以下は騎乗を許されなかった。 |
30 |
かちわたり |
歩行渡り |
川などを歩いて渡ること。徒渡り。 |
3 |
かねつきどう |
鐘撞堂 |
城下の栄(さかえ)町に時鐘と火の見のために設けられた鐘楼。時報を告げ、火急のときは早鐘(はやがね)を打った。復元模型が岡山シティーミュージアムに常設展示されている。 |
48 |
かみしも |
上下 |
ここでは、主人(かみ)と従者(しも)、の意。 |
11 |
からかわ |
辛川 |
津高(つだか)郡西辛川(にしからかわ)村、岡山藩領。一之宮(いちのみや)村の北、山陽道が通り西隣の賀陽(かよう)郡宮内(みやうち)村との境に国境石が建つ。 |
46 |
かるべむら |
軽部村 |
備中国窪屋(くぼや)郡、岡山藩領。高梁(たかはし)川左岸、川辺村の対岸にあり、枝村(えだむら)のうちに中島(なかしま)がある。山陽道が東西に通る。 →中嶋渡場。河(川)辺 |
86 |
かわべ |
河(川)辺 |
備中国下道(しもつみち)郡川辺(かわべ)宿。高梁(たかはし)川右岸の山陽道宿駅。岡田藩領、藩主伊東氏。西の小田郡矢掛宿、東の賀陽(かよう)郡板倉宿は庭瀬藩領。山陽道の高梁川渡河点で、対岸の窪屋(くぼや)郡軽部(かるべ)村の枝村(えだむら)中島(なかしま)と結ぶ船渡しがあり、川辺渡(かわべのわたし)、中島渡と称された。岡山県倉敷市真備町。 →軽部村。中嶋渡場 |
42 |
かわむかい |
川向 |
旭川東岸。三橋の小橋(こばし)の東詰めのたもと、山陽道から南下する道の脇、国清寺(こくせいじ)の西北角に接して馬借(ばしゃく、文久城下図「馬問屋」)があった。その前は山陽道と川土手石崖に囲まれた広場であった。
→馬借 |
62 |
かんざえもん |
勘左衛門 |
村上勘左衛門。むらかみ・かんざえもん。岡山藩士。町奉行:享保6年6月〜享保15年5月(1721-1730)。 |
48 |
かんざき |
神埼 |
肥前国牛津宿(佐賀県小城郡牛津町)―神埼宿(同、神埼郡神埼町)―田代宿(同、鳥栖市)――筑前国山家宿(福岡県筑紫野市)― |
19 |
かんしょう |
喚鐘 |
半鐘(はんしょう)のこと。 |
50 |
かんなべ |
神野辺 |
備後国尾道宿(広島県尾道市)―神辺宿(同、福山市神辺町)――備中国矢掛宿(岡山県小田郡矢掛町)―坂倉宿(同、岡山市吉備津)――備前国宿村(同、岡山市東区古都宿こずしゅく)― |
20 |
ききやくしゅう |
聞役衆 |
江戸時代、大名家で公儀の用向きを聞いて取り次ぐ役。留守居。 |
16 |
きざみ |
刻 |
とき。時。折(おり)。 |
2 |
きたながせむら |
北長瀬村 |
岡山藩領御野(みの)郡。笹ケ瀬(ささがせ)川の東、左岸にあり、南の西長瀬(にしながせ)村との境を鴨(かもがた)方往来が通る。鴨方往来は岡山城下の栄(さかえ)町を起点に大雲寺(だいうんじ)町、瓦町、大供(だいく)村を通り、庭瀬、倉敷をへて鴨方へ通じた。 |
90 |
きたはまかしょまち |
北浜過書町 |
大阪市東区北浜。近世大坂の町は、北組・南組・天満組の三組に分かれ大坂三郷と呼ばれた。北組に属し、町名は京坂交通のため江戸幕府から淀川の通航を特許された過書船(かしょせん)の船頭・船持が集住していたことに由来するという。 |
20 |
きょうえつ |
恐悦 |
目上の人の喜ばしい出来事を、自分も喜ぶという気持ちを表す語。つつしんで喜ぶこと。 |
23 |
きょうこうきんげん |
恐惶謹言 |
つつしんで申し上げるのことの意。とくに書状などの末尾に書止めとして記して敬意を表す文言。 |
7 |
きょうばし・なかばし・こばし |
京橋・中橋・小橋 |
宇喜多氏時代山陽道の付け替えによる主要橋として、岡山城下の旭川(西大川)右岸(西)から二つの中州(西中島・東中島)を結んで京橋(きょうばし)―中橋(なかばし)―小橋(こばし)の三橋が架けられた。 |
22 |
きょうばしにしづめ |
京橋西詰 |
京橋は岡山城下を東西に二分する旭川に架かり山陽道が通る三橋の西よりの橋。船便の起点でもあり城下で最もにぎわった。西詰は制札場があり、橋本町への出入口。東詰は中州の西中島町で旅籠町。 →京橋・中橋・小橋 |
44 |
きん |
斤 |
尺貫法の重量の単位。1斤=160匁(約600グラム)。江戸時代は薬種のほかはこの唐目を用いた。 |
3 |
きんじゅう |
近習 |
近習物頭(きんじゅうものがしら)のこと。岡山藩では番頭につぐ格式。相当職は大小姓頭、郡代、作廻方(さくまいかた)、判形(はんぎょう)、公儀使(江戸留守居)、大目付、町奉行、寺社奉行など。 |
21 |
くがほんごう |
玖珂本郷 |
萩藩支藩、周防国岩国藩領の山陽道宿駅。玖珂本郷村に玖珂宿がある。山口県岩国市。 |
42 |
くぎぬきごもん |
釘抜御紋 |
岡山藩主池田家の家紋の一つ(『岡山県通史』下編)。釘抜紋は昔の釘抜き台座(座金、ざがね)の紋章化で、縁起紋として武将に多く用いられたという。 |
84 |
くさつ |
草津 |
山陽道草津宿。広島城下と廿日市(はつかいち)宿との間に位置する間宿。広島市西区。 |
54 |
くねんぼ |
九年母 |
ミカン科の常緑低木。タイ・インドシナ原産。果実はユズに似た大きさで秋にオレンジ色に熟し、香りと酸味が強い。 |
19 |
くみはずれ |
組はつれ |
組外。くみはずれ。岡山藩の格式。物頭につぐ格式の近習頭分、組頭級の藩士で役職につかないものを編成。 |
40 |
ぐんかいしょ |
郡会所 |
岡山藩の郡方(在方、農村)の民政役所。石関町(いしぜきちょう)の酒折宮(岡山神社)前の広場に北面していた。郡方(ぐんがた)役人の最上位は郡代で、郡奉行、郡目付、代官などの諸役を統轄してあたった。 |
21 |
げいしゅう |
芸州 |
安芸国(あきのくに)。ここでは広島藩を指す。 |
56 |
けん |
間 |
近世以降一般化した長さの単位。主に土地・建物などに用いる。1891年(明治24)1間を曲尺で6尺(約1.818メートル)とする尺貫法の単位として定めた。 |
12 |
こおりぶぎょう |
郡奉行 |
岡山藩の郡方(ぐんがた)役人、格式は平士(へいし)。郡代のもとで年貢率の決定をはじめ領民支配にあたった第一線の責任者。配下に郡目付、代官がいた。象の通行の際は山陽道が東西に通過する各郡―西から備中山北南(御領分)、津高(つだか)、御野(みの)、上道(じょうとう)、邑久(おく)、和気(わけ)―の郡奉行が出張した。このほかに赤坂(あかさか)、磐梨(いわなし)の2郡があった。 →郡会所 |
87 |
こくら |
小倉 |
豊前国小倉宿(福岡県北九州市小倉北区)― |
19 |
こくら |
小倉 |
ここでは豊前国小倉藩(小笠原氏)、15万石。城下町小倉は長崎街道の起点の宿駅で、中国路(山陽道)終点の小倉藩領大里(だいり)宿へ続く。大里宿は本州南端下関宿の対岸にあり、18世紀末(寛政)に長崎街道の起点となった。 |
41 |
ここもと |
爰許 |
こちら、ここ。話し手が現にいる場所、またその付近を示す。 |
16 |
ごぜんさま |
御前様 |
藩主池田継政の奥方。「御前」は大名、高家(こうけ)などの奥方の敬称。 |
23 |
ごちゃく |
御着 |
備前国片上宿(岡山県備前市)――播磨国有年宿(兵庫県赤穂市)―鵤宿(同、揖保郡太子町)―御着宿(同、姫路市)―大久保(兵庫県明石市、明石宿の本陣は大蔵谷町と大久保村にあった)―― |
20 |
こづ |
古都 |
備後国尾道宿(広島県尾道市)―神辺宿(同、福山市神辺町)――備中国矢掛宿(岡山県小田郡矢掛町)―坂倉宿(同、岡山市吉備津)――備前国宿村(同、岡山市東区古都宿こずしゅく)― |
20 |
こなかき |
糝 |
こなかき。雑炊のこと。 |
13 |
ごにんぐみがしら |
五人組頭 |
岡山藩は郡方支配の藩役人のもとで村の民政に従事した村方(地方)三役を元禄2年(1689)に改称、年寄(としより)を五人組頭(ごにんぐみがしら)に変更し、名主(なぬし)の補佐役とした。 |
45 |
ごほう |
御報 |
身分の高い人に出す文書での返事に用いる脇付(わきづけ)。 |
10 |
こやのせ |
木屋瀬 |
筑前国飯塚宿(福岡県飯塚市)―木屋瀬宿(同、北九州市八幡西区)― |
19 |
ごよう |
御用 |
朝廷・幕府などの公用・公務の用事。 |
16 |
こんどう・しちろうだゆう |
近藤七郎右衛門 |
岡山藩士。享保10年(1725)8月より側児小姓(そばこごしょう)頭、享保18年(1733)1月より大小姓頭にて兼帯、寛保3年(1743)6月まで。 |
28 |
読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
さいきょのもの |
裁許之者 |
ここでは、宰領の者、の意。 |
81 |
さいじょう |
西条 |
安芸国小方村(広島県大竹市)―廿日市宿(同、廿日市市)―海田宿(同、安芸郡海田町)―西条四日市宿(同、東広島市)――備後国沼田本郷宿(同、三原市)― |
19 |
さいだいじちょう |
西大寺町 |
中堀と外堀に囲まれた郭内(三之曲輪の内)の商業町。山陽道は旭川東岸から京橋(きょうばし)をへて西岸たもとの橋本(はしもと)町に入り、西隣の当町で北に折れ、紙屋(かみや)町から栄(さかえ)町へ通じた。 →新町御門。新町口 |
80 |
ざいちゅう |
在中 |
ここでは、在は農村、中は全体の意。 |
49 |
さいばん |
裁判 |
ここでは、その場を治め管理すること。 |
45 |
ざいまち |
在町 |
城下町や宿場町以外の町。在郷町。 |
42 |
さいりょう |
宰領 |
荷物を運送する駄馬や人夫をひきつれ、その監督、取締りをする人。 |
5 |
さかえちょう |
栄町 |
内堀と中堀に囲まれ、南北に走る山陽道の両側町。郭内(三之曲輪の内)の商業町の南端で、北は下之町(しものちょう)。町会所、本陣、時鐘と火の見のための鐘楼(鐘撞堂)が設けられ、南入口の内堀に架かる千阿弥(せんあみ)橋北詰に山陽道の一里塚があった。山陽道と領内主要道の結節点として、ここを起点に道路網が組織された。→栄町上下之門。 町会所 |
50 |
さかえちょうかみしものもん |
栄町上下之門 |
山陽道は栄(さかえ)町の南入口で北へ折れ、内堀にかかる千阿弥(せんあみ)橋を渡る。橋の北詰の南入口と、北の下之町との境で中堀に架かり中山下へ通じる栄橋西詰の二か所に「関貫(かんぬき)」門があった(文久元年「備前岡山地理家宅一枚図」)。象の宿泊時に、このかみとしもの両門を閉め、栄町への出入りを閉鎖したと考えられる。 →栄町 |
52 |
さかおり |
酒折 |
酒折宮。旭川端、右岸の石関(いしぜき)町にある現在の岡山神社。宇喜多氏により岡山城内から移され、万治年中(1658-61)に酒折宮と改称。岡山城地の守護神として歴代城主の崇敬を受けた。 |
48 |
さかきばら・しきぶたいふ |
榊原式部大輔 |
播磨国姫路藩主。 |
7 |
さかやき |
さかやけ |
月代(さかやき)のこと。 |
47 |
さきばらい |
先払 |
大名行列などの前方の通行人を追い払うか下座させる役目のひと。 |
43 |
さきぶれ |
先触 |
江戸時代、朝廷、幕府役人、大名、家中など支配者階級の街道通行にあたり、前もって街道の宿駅に人馬の継立、休泊その他の手配を命じた通知書。 |
16 |
さくじつ |
朔日 |
ついたち。毎月の第1日。 |
6 |
ざぼん |
ざぼん |
ザボン。ミカン科の常緑高木。果実は扁球形で径約15p。果肉は淡黄色、味は淡泊でやや苦みがある。果皮は厚く砂糖漬けにする。 |
13 |
しきい |
敷居 |
土間などに敷いてすわるむしろの類。 |
84 |
しったつ |
執達 |
上意をうけて下位の人に通達すること。 |
6 |
しな |
品 |
ここでは、事情、ようす、の意。 |
81 |
しのび |
忍 |
しのび(忍)の者の略。旭川の東、門田屋敷(かどたやしき)に伊賀衆の忍び屋敷があった。 |
44 |
しめて |
〆 |
〆(しめ)て。合計して。都合(つごう)。 |
11 |
しものせき |
下関 |
長門国下関宿(山口県下関市)―吉田宿(同、下関市)―船木宿(同、宇部市)―― |
19 |
しゃく |
尺 |
尺貫法の長さの単位。約30.3p。寸(すん)の10倍、丈(じょう)の10分の1。1891年(明治24)曲尺(まがりじゃく)3尺3寸を1メートルと規定。 |
4 |
しょう |
升 |
尺貫法の体積の単位。合(ごう)の10倍。斗(と)の10分の1。時代によって量が異なる。1891年(明治24)1升=約1.8039リットルと定めた。 |
13 |
じょう |
丈 |
尺貫法の長さの単位。約31メートル。尺(しゃく)の10倍。 |
4 |
じょう |
畳 |
たたみ(畳)を数える語。その数によって部屋の広さを指す。 |
12 |
しょうしゅ |
焼酒 |
しょうしゅ。朝鮮の蒸留酒。うるち米、もち米、またはとうもろこし、燕麦などを原料としたもろみ粕を蒸留したもの。日本の泡盛に似ている。 |
14 |
しょしき |
諸色 |
いろいろの品物。 |
35 |
しょて |
諸手 |
岡山藩庁の諸部署、の意。 |
63 |
しんまちぐち |
新町口 |
内堀の「南(御)門」から紙屋(かみや)町、西大寺(さいだいじ)町の新町(しんまち)筋へ南下する道は、西大寺町南端で山陽道に通じた。この場所を指すと考えられる。 |
46 |
しんまちごもん |
新町御門 |
内堀の東西南北に設けられ内山下から城下町へ通じる四つの門(番所あり)のうち、「南(御)門」(大手門)のこと。新町は池田忠雄時代(元和元〜寛永9年、1615-32)大手門をこの地に移し改築した際、大手門に通じる紙屋(かみや)町と西大寺(さいだいじ)町間の南北の街路沿いに新たにできたという。 |
44 |
すいた |
簀板 |
和船の船底に敷く簀の子状の板。 |
17 |
すみ |
煤 |
煤炭(ばいたん)。石炭の旧称。 |
14 |
すん |
寸 |
尺貫法の長さの単位。約3.03p。尺(しゃく)の10分の1。 |
14 |
せきど |
関戸 |
萩藩支藩、周防国岩国藩領の山陽道宿駅。関戸宿は安芸国からの入り口にあたる。山口県岩国市。 |
42 |
せっしゅう |
摂州 |
摂津国。畿内五カ国のひとつ。江戸時代は大坂城代と尼崎・三田(さんだ)・高槻・麻田の4藩がおかれ、廃藩置県後、尼崎・三田藩は兵庫県東部、他は大阪府北部となる。 |
5 |
せんだつ |
先達 |
ここでは案内者。 |
79 |
そうどしより |
惣年寄 |
岡山城下町の町方役人の最上位におかれ、町奉行の支配を受けて民政にあたった。士分の「平士(へいし)」に次ぐ「士鉄砲(さむらいてっぽう)格」の扱いを受け、定員3人で城下62町を上中下3組に分けてそれぞれを担当した。惣年寄のもとに船年寄、各町に名主・年寄がおかれた。 →町会所 |
46 |
そく |
束 |
たばねたものを数える語。10個を一組としたものを1束という。 |
83 |
そのぎ |
彼杵 |
肥前国矢上宿(長崎県長崎市矢上町)―諫早(同、諫早市)―大村宿(同、大村市)―彼杵宿(同、東彼杵郡東彼杵町)―武雄(佐賀県武雄市)― |
19 |
読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
だいだい |
橙 |
ミカン科の常緑低木。果実は冬に黄熟するが、冬を経ても実が落ちないため、「代代(だいだい)」に通じさせ正月の飾りにも用いる。 |
13 |
たいとうまい |
大唐米 |
あかごめのこと。外来の米で米粒がやや小さく細長で薄い赤斑がある。味はあまりよくないが、炊くと倍近くに増えるので徳用とされた。 |
13 |
だいり |
大里 |
豊前国小倉藩領の大里宿(北九州市門司区)は幕府公称の中国路(山陽道)の終点、小倉から長崎街道が接続する。関門海峡を挟み対岸は下関宿の赤間関(あかまがせき)。象の一行はここから岩石運搬用の石船(いしぶね)で渡った(『長崎街道[九州文化図録撰書1]』)。→小倉 |
16 |
だいり |
大里 |
豊前国大里宿(福岡県北九州市門司区)―― |
19 |
たかぎ・さくえもん |
高木作右衛門 |
高木忠與。享保9年(1724)御用物(ごようもの)役(『長崎叢書』)、長崎奉行の支配下で長崎貿易における幕府購入物資の支配を行った。元文4年(1739)長崎代官、以後この役は高木家が世襲した。 |
11 |
たかや |
高屋 |
備中国西端の山陽道宿駅、後月(しつき)郡高屋宿。西は備後国神辺(かんなべ)宿、東は後月郡七日市(なぬかいち)宿。岡山県井原市。 |
42 |
たけお |
武雄 |
肥前国矢上宿(長崎県長崎市矢上町)―諫早(同、諫早市)―大村宿(同、大村市)―彼杵宿(同、東彼杵郡東彼杵町)―武雄(佐賀県武雄市)― |
19 |
たしろ |
田代 |
肥前国牛津宿(佐賀県小城郡牛津町)―神埼宿(同、神埼郡神埼町)―田代宿(同、鳥栖市)――筑前国山家宿(福岡県筑紫野市)― |
19 |
たつの |
立野 |
播磨国竜野藩。寛文12年(1672)以降、脇坂氏。宝永6年(1709)以降、5万1千石。 |
5 |
たつのじょうこく |
辰上刻 |
江戸時代の時法(十二辰刻)では、辰刻(たつのこく)はおよそ午前7時から9時のあいだの時刻。辰の上刻は午前7時頃、時鐘打数法では朝五ツ。 |
81 |
たべ |
給 |
給は「たぶ」、食べるの意。 |
51 |
たべもの |
給物 |
食べ物。給は「たぶ」、食べるの意。 |
2 |
たまり |
溜り |
ここでは、山陽道が中山下(なかさんげ)出入口から「山崎町口御門」へ通じる外堀土手下にある「番所」の前の広場を指す。
→山崎町 |
62 |
ちゅうげん |
中間 |
江戸時代、武家に奉公して雑務に従事、足軽と小者の中間に位置した。 |
11 |
ちゅうごく |
中国 |
中国地方。 |
2 |
ちゅうごくすじ |
中国筋 |
山陽道筋。山陽道の幕府の公称は中国路(ちゅうごくじ)。 |
7 |
ちゅうしんがき |
注進書 |
事件の内容を書き記して急ぎ上申する報告書。 |
10 |
ちょう |
丁 |
ここでは丁銭(ちょうせん)、丁百(ちょうひゃく)の略。長銭、調百とも。江戸時代、銭96文を100文に通用させる九六(くろく)銭等の慣行に対し、銭100文を正しく100文として用いる場合にいった。 |
35 |
ちょう |
丁 |
ここでは距離の単位、町。1町は60間(けん)=360尺(しゃく)。約109メートル強。 |
52 |
ちょうふ |
長府 |
ここでは萩藩の支藩、長門国長府藩、別称府中藩、4万7,803石(のち5万石)。享保14年(1729)当時の藩主(9月まで)は毛利甲斐守匡広(まさひろ)。長府に陣屋がおかれ、山陽道が通る城下町に長府宿が設けられた。山口県下関市。 |
41 |
つうじ |
通事 |
通詞、通辞。通訳のこと。江戸幕府の役職として、長崎・平戸に唐通事、阿蘭陀(オランダ)通詞が置かれた。 |
11 |
つぎうま |
次馬 |
継馬(つぎうま)。江戸時代、街道の宿継ぎの馬。公用通行にあてるため宿駅に常備され、宿駅から宿駅へ人馬を継ぎかえて人や荷物を送った。 |
19 |
つだ・たんげ |
津田丹下 |
岡山藩士。大小姓頭:享保元年閏2月〜享保15年10月(1716-1730)。 |
28 |
ていかかずら |
ていか葛 |
ていかかずら(定家葛)。キョウチクトウ科の常緑つる性の花木。本州、四国、九州の山野に自生する。茎から気根を出し、他の樹木や岩石に巻きついてよじのぼる。 |
13 |
でわ |
出羽 |
岡山藩家老(3万石)池田政純。4代藩主綱政の末男、宝永7年(1710)相続。享保13年(1728)8月より分家並。 |
70 |
といや |
問屋 |
宿駅問屋。近世の宿駅で問屋場を管理し、年寄の補佐のもとに下役を指揮して人馬の継立て、休泊(昼休みと宿泊)業務をつかさどった宿役人の長。 |
20 |
とうじん |
唐人 |
中国人。 |
11 |
どうしん |
同心 |
町奉行の支配下にあり定員6人。岡山城下町の取締りと罪人の検挙、糾問にあたった。 →町会所 |
46 |
どうだん |
同断 |
「おなじことわり」の音読。同じであること。前のとおりであること。同前。同様。 |
22 |
とうぼしまい |
とうぼし米 |
唐法師米。大唐米(たいとうまい)のこと。 |
36 |
とうめ |
唐目 |
1斤=160匁(約600グラム)とする秤目(はかりめ)。中国の宋代の秤目が伝わったもの。大和目(やまとめ)は薬種を量る秤目で1斤=180匁=約675グラム。 |
12 |
としより |
年寄 |
近世の宿駅で人馬の継立て・休泊業務を扱った宿役人。問屋の補佐役。 |
20 |
としよりじゅう |
年寄中 |
年寄(としより)は岡山藩家老で仕置(しおき)職のものを指す。執政職の最高位。寛永19年(1642)6月以降、家老6家から三人役、または二人役で就任した。中(じゅう)は年寄すべて、の意。 →両老 |
63 |
とつなぎ |
とつなぎ |
外繋ぎ。牛馬を戸外につなぐための施設。そとつなぎ。 |
12 |
とのさま |
殿様 |
岡山藩主5代池田継政(いけだ・つぐまさ)。享保13年(1728)8月11日参勤のため岡山出立。享保14年4月2日江戸出立、日光社参をへて倉賀野から中山道経由で東海道伏見宿へ、さらに脇街道の山崎通(やまざきみち)を通り、西宮宿をへて4月24日岡山帰国。 |
23 |
とまり |
泊 |
先触状に記された長崎から大坂までの宿泊先(泊付け)。長崎街道矢上宿から小倉宿、さらに大里宿から関門海峡を渡海し、西宮から尼崎を経由して大坂までの山陽道(幕府の公称は中国路)の宿駅と沿道の村である。 |
19 |
とんだ |
富田 |
周防国小郡宿(山口県山口市)―宮市宿(同、防府市)―富田宿(同、新南陽市)―呼坂宿(同、周南市)―柱野村(同、岩国市)―― |
19 |
読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
ないしょう |
内證 |
内証。表向きにせず、内々にすること。 |
13 |
なおなお |
尚々 |
なおまた付け加えて。尚尚書(なおなおがき)は手紙の本文の前後または行間に書きそえて、多く「尚尚」とか「追而(おって)」とかの語で書き始める。おってがき。追伸。 |
29 |
なかいずしちょう |
中出石町 |
出石(いずし)町は酒折(さかおり)宮の北、旭川沿いに下、中、上と南北に連なる商業町。外堀東北端の上出石(かみいずし)町は津山(倉敷)往来の城下の出入口。 |
80 |
ながさきぶぎょう |
長崎奉行 |
江戸幕府の遠国(おんごく)奉行の一つ。出島を所管し対外貿易の管理、海防、西国大名の監視、天領長崎の町方支配などをつかさどった。定員は享保期(1716-1736)以降は概ね2人制、1年交替で江戸と長崎に詰め、配下に清国通詞、オランダ通詞がいた。 |
1 |
長崎屋 |
長崎屋 |
大坂の阿蘭陀宿(おらんだやど)。カピタン(オランダ商館長)の江戸参府一行の定宿で、江戸・京・大坂・小倉・下関の五都市にあった。それぞれの町奉行の支配と同時に長崎会所から役料、賄料の支給を受け、長崎奉行の支配を受けた。 |
20 |
なかさんげよつつじ |
中山下四辻 |
中山下(なかさんげ)は中堀と外堀に囲まれた郭内(三之曲輪の内)の中級藩士屋敷地。外堀の北方に「山崎町口(御)門」(番所あり)、南方に「常盤口(御)門」(番所あり)がある。上之町から郭外の山崎町へ、中山下の北部を東西に通る山陽道と、南北に通る二つの道との東西の四辻(十字路)。 |
44 |
なかしま川 |
中嶋川 |
備中国窪屋(くぼや)郡軽部(かるべ)村の枝村(えだむら)、中島(なかしま)からいう高梁(たかはし)川の呼称。 →中嶋渡場。河(川)辺 |
86 |
なかしまわたしば |
中嶋渡場 |
山陽道の高梁(たかはし)川渡河点で、左岸の窪屋(くぼや)郡軽部(かるべ)村の枝村(えだむら)、中島(なかしま)と右岸の川辺(かわべ)村とを結ぶ船渡しがあった。中島は渡し用の高瀬舟を保有していた。 |
45 |
なかのちょうごもん |
中之町御門 |
上之町、中之町、下之町、栄町は内堀と中堀に囲まれ、南北に走る山陽道の両側に発展した郭内((三之曲輪)の商業町。中之町御門(西御門、番所あり)は、家老・重臣級の屋敷地である内山下(うちさんげ、内堀以内の本丸と二の丸の全域)から内堀の西、中之町への出入口で、山陽道に直結していた。 |
44 |
なぬし |
名主 |
岡山藩は郡方支配の藩役人のもとで村の民政に従事した村方(地方)三役を元禄2年(1689)に改称し、庄屋を名主(なぬし)に変更した。 |
45 |
にしかわ |
西川 |
池田忠雄時代(元和元〜寛永9年、1615-32)に開削され、旭川右岸(北方村、三野村、合併後御野村)から取水、外堀の西、城下の西縁を南流し、城下西方の農村地帯への灌漑用水、城下町の防火用水などに使われた。城下で12の橋がかかっていた。 |
44 |
にしのまる |
西ノ丸 |
西の丸は岡山城の本丸(ほんまる)を囲む二の丸内屋敷の西の郭、石山(いしやま)と呼ばれた丘陵にあった。3代藩主池田光政の隠居後、西の丸御殿が岡山藩主の隠居所となった。西の丸の北門は石関(いしぜき)町へ、南の石山門は二の丸に通じた。 |
72 |
にしのみや |
西宮 |
摂津国兵庫宿(兵庫県神戸市兵庫区)―西宮宿(兵庫県西宮市)―大坂(大阪府大阪市) |
20 |
にほんまつ |
二本松 |
旭川下流東岸、洪水調節人工河川の百間川(ひゃっけんがわ)左岸、山陽道沿いの上道(じょうとう)郡藤原村の内(現・岡山市藤原町)、茶屋・一里塚があった。 |
27 |
にわせ |
庭瀬 |
備中国庭瀬藩。元禄12年(1699)以降、板倉氏2万石。 |
5 |
ぬまむら |
沼村 |
上道(じょうとう)郡、岡山藩領。旭川と吉井川の間を南流する砂川(すながわ)の右岸にあり、山陽道が通る。藤井(ふじい)宿と一日市(ひといち)宿の間に位置し、茶屋があった。 |
87 |
のあい |
野合 |
野良。ここでは町場からはずれた街道沿いの農村地帯の意。 |
6 |
のおがた |
直方 |
筑前国直方(福岡県直方市)―― |
19 |
のま・ござえもん |
野間五左衛門 |
岡山藩士。判形(はんぎょう):正徳5年9月〜享保20年8月(1715-1735)。 |
59 |
のりかけうま |
乗掛馬 |
駄馬1頭の両側に明け荷という葛籠(つづら)2個を渡し、その上に布団を敷いて人が乗り、それに荷物20貫目(75s)をつけ、荷量は大体40貫目の重さであった。 |
4 |
読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
はしぢか |
端近 |
家の中で上がり口など外に近いところ。 |
27 |
ばしゃく |
馬借 |
旭川三橋の東詰め、山陽道をはさむ小橋(こばし)町は岡山宿の馬継場。城下図(文久元・3年「備前岡山地理家宅一枚図」)によると、町の出入口の「関貫(かんぬき)」門の南、道の脇に「馬問屋」があり、馬借はこれを指すと考えられる。西の中州の西中島(にしなかじま)町は、馬宿として馬方の居住地であった。 |
44 |
ばしょう |
芭蕉 |
バショウ科の大型多年草。高さ4メートルくらい、葉は1.5メートルくらいの長楕円形。葉の繊維から布や紙をつくり、また葉、根を煎じて利尿、解熱薬にする。 |
18 |
はしらの |
柱野 |
周防国小郡宿(山口県山口市)―宮市宿(同、防府市)―富田宿(同、新南陽市)―呼坂宿(同、周南市)―柱野村(同、岩国市)―― |
19 |
はせがわ・くろうだゆう |
長谷川九郎大夫 |
岡山藩士。郡代:享保13年5月〜享保16年2月(1728-1731)。 |
14 |
はたご |
旅籠 |
旅宿が食べ物を調理して提供する食事付きの宿泊、を指す.。特権通行者の休泊料金(賄い料)は、山陽道においても、幕府が五街道において定めた「木銭米代(きせんこめだい)」形式の低廉な料金が慣行的に適用された。 |
35 |
はつかいち |
廿日市 |
安芸国小方村(広島県大竹市)―廿日市宿(同、廿日市市)―海田宿(同、安芸郡海田町)―西条四日市宿(同、東広島市)――備後国沼田本郷宿(同、三原市)― |
19 |
ばんがしら |
番頭 |
岡山藩では家老につぐ格式。番方の大組(おおくみ)を預かり、相当職は家老の仕置職を補佐する中老、小仕置(こしおき)など。 |
21 |
ばんななつ |
晩七つ |
午後4時頃(時鐘打数法)。夕(晩)七つは十二辰刻では申(およそ午後3時〜5時の間)の正刻。 |
54 |
ひき |
疋 |
ここでは、銭を数える単位。1疋は銭10文、銭1貫文(1,000文)が百疋(ひゃっぴき)にあたる。上にくる語によって「ぴき」「びき」となる。 |
61 |
ひつじのこく |
未刻 |
江戸時代の時法(十二辰刻)ではおよそ午後1時から3時のあいだの時刻。未の正刻は午後2時頃、時鐘打数法では昼八ツ。 |
22 |
ひといち |
一日市 |
岡山藩領、上道(じょうとう)郡一日市(ひといち)村にある山陽道の宿駅、一日市宿。東の片上(かたかみ)宿、西の藤井(ふじい)宿の間宿。南流する吉井川の西岸、北接する吉井(よしい)村境を通る山陽道沿いに町並みを形成。山陽道の吉井川渡河点にあたり渡船場があった。 →吉井川渡場 |
47 |
ひめじ |
姫路 |
播磨国姫路藩城下の姫路宿。 |
42 |
ひょうご |
兵庫 |
摂津国兵庫宿(兵庫県神戸市兵庫区)―西宮宿(兵庫県西宮市)―大坂(大阪府大阪市) |
20 |
ひらたぶね |
平太舟 |
底が平たく、吃水(きっすい)が浅い細長い舟。江戸時代に大型川船として貨客輸送に用いた。 |
45 |
ひるここのつ |
昼九つ |
正午頃(時鐘打数法)。 →午中刻(うまのなかこく) |
55 |
ひろ |
尋 |
両手を左右に広げたときの両手先の間の距離。縄(なわ)や水深などをはかる長さの単位。江戸時代の1尋は5尺(約1.5メートル強)、または6尺(約1.8メートル強)。 |
45 |
ひろさわ・きのすけ |
広沢喜之助 |
広沢喜之介。岡山藩士。寺社奉行:享保13年5月〜寛延元年7月(1728-1748)。 |
63 |
ふじい |
藤井 |
岡山藩領、上道(じょうとう)郡藤井(ふじい)村にある山陽道の宿駅、藤井宿。東の片上(かたかみ)宿へ4里8町、西の岡山宿へ2里。 |
47 |
ふなき |
船木 |
長門国下関宿(山口県下関市)―吉田宿(同、下関市)―船木宿(同、宇部市)―― |
19 |
ふなつきちょう |
船着町 |
旭川三橋の京橋(きょうばし)西のたもと、橋本(はしもと)町の南へ続く、旭川沿いに南北に発達した郭内(三之曲輪の内)の商業町。 →西大寺町 |
81 |
ふなと・きゅうざえもん |
舟戸久左衛門 |
岡山藩士。大目付:享保10年9月〜享保16年9月(1725-1731)。 |
79 |
ふれくち |
触口 |
触れ知らせる人。 |
21 |
ふん |
分 |
江戸時代、銀目(ぎんめ、銀貨の秤量単位)の単位。銀1匁(もんめ)の10分の1。1厘(りん)の10倍。「ぶ」は慣用音。本来の分(ぶ)は金貨の貨幣単位で1両の4分の1。 |
35 |
へき・いえもん |
日置猪右衛門 |
岡山藩家老(1万6千石)。宝永3年1月20日〜元文4年8月10日(1706-1739)御仕置役。 |
8 |
べん へん |
遍 |
度数を数える語。 |
40 |
ほんごう |
本郷 |
安芸国小方村(広島県大竹市)―廿日市宿(同、廿日市市)―海田宿(同、安芸郡海田町)―西条四日市宿(同、東広島市)――備後国沼田本郷宿(同、三原市)― |
19 |
ほんさか |
本坂 |
本坂道(ほんさかどおり)は東海道今切(いまぎれ)渡しを避けて浜名湖北岸を迂回する道筋。東海道浜松宿から分岐し気賀(けが)―三カ日(みつかび)―嵩山(すさ)を経て御油(ごゆ)宿に合流する。通称、姫街道。 |
2 |
読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
まいるひとびとおんちゅう |
参人々御中 |
脇付(わきづけ)の一種。あて名の左下に書き添えて敬意を表す。 |
8 |
またの・りすけ |
俣野利介 |
岡山藩士。寺社町目付:享保13年4月〜寛保2年1月(1728-1742)。 →町会所 |
46 |
まちかいしょ |
町会所 |
岡山藩の町政役所で、栄(さかえ)町に置かれた。町奉行(定員1名)が寺社町目付、惣年寄(士分の「士鉄砲格」、さむらいてっぽうかく)、同心などの諸役を統轄してあたった。 →栄町 惣年寄 |
27 |
まつだいら・あきのかみ |
松平安芸守 |
安芸国広島藩主。 |
7 |
まつだいら・おおいのかみ |
松平大炊頭 |
備前国岡山藩主。 |
7 |
まつだいら・さひょうえのかみ |
松平左兵衛督 |
播磨国明石藩主。 |
7 |
まつだいら・とおとおみのかみ |
松平遠江守 |
摂津国尼崎藩主。 |
7 |
まつだいら・ながとのかみ |
松平長門守 |
長門国萩藩主。 |
6 |
みのじ |
美濃路 |
中山道の脇往還で五街道と同様に幕府道中奉行の管轄。東海道熱田(宮)宿から分岐し名古屋―清洲―稲葉―萩原―起―墨俣―大垣を経て中山道垂井宿まで。 |
2 |
みやいち |
宮市 |
周防国小郡宿(山口県山口市)―宮市宿(同、防府市)―富田宿(同、新南陽市)―呼坂宿(同、周南市)―柱野村(同、岩国市)―― |
19 |
みやけ・すおうのかみ |
三宅周防守 |
周防守康敬。長崎奉行:享保11年5月28日〜享保17年8月7日(1726-1732)。 |
5 |
むつ |
六つ |
ここでは明け六つ(時鐘打数法)、午前六時頃。十二辰刻では卯(午前5時〜7時の間)の正刻。 |
35 |
もうしきける |
申聞 |
ここでは、申し伝える、の意。 |
25 |
もうり・かいのかみ |
毛利甲斐守 |
長門国府中藩主。 |
6 |
もうり・たじまのかみ |
毛利但馬守 |
周防国徳山藩主。 |
6 |
ものがしら |
物頭 |
岡山藩では近習物頭につぐ格式で、旧称は先手(さきて)物頭、外様(とざま)物頭。相当職は船奉行、旗奉行、鉄砲頭などの軍事系。 |
21 |
もりしたちょう |
森下町 |
旭川の東、山陽道沿いに発達した両側町で、山陽道の岡山城下東の出入口。町の東の外れに惣門と「番屋敷」があった。 |
27 |
もん |
文 |
銭貨の単位。江戸時代、寛永通宝(銅銭)1枚を1文(1銭)、1,000文を1貫文とした。 |
35 |
もんめ |
匁 |
江戸時代、銀目(ぎんめ、銀貨の秤量単位)の単位。元禄13年(1700)幕府の定めた公定レートは金1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)。 |
35 |
読 み |
原史料の表記 |
説 明 |
初出頁 |
(「御」は省略) |
番号 |
やかげ |
矢掛 |
備後国尾道宿(広島県尾道市)―神辺宿(同、福山市神辺町)――備中国矢掛宿(岡山県小田郡矢掛町)―坂倉宿(同、岡山市吉備津)――備前国宿村(同、岡山市東区古都宿こずしゅく)― |
20 |
やがみ |
矢上 |
肥前国矢上宿(長崎県長崎市矢上町)―諫早(同、諫早市)―大村宿(同、大村市)―彼杵宿(同、東彼杵郡東彼杵町)―武雄(佐賀県武雄市)― |
19 |
やくし |
薬師 |
磨屋(とぎや)町の円覚寺薬師院(現在は薬師院)。「山崎町口(御)門」(番所あり)の南、外堀の西側にあり、堀端の道路は南の蓮昌寺(れんじょうじ)に続く。城下真言寺院中第一の伽藍を有していたが空襲で全焼、戦後寺域を大幅に縮小。 |
44 |
やた |
矢田 |
下道(しもつみち)郡八田(やた)村は岡田藩領と岡山藩領に分かれ、後者(約4割)を矢田(やた)村と称した。村の中央を山陽道が東西に抜け東は川辺(かわべ)村。岡山県倉敷市真備町。 |
45 |
やまえ |
山家 |
肥前国牛津宿(佐賀県小城郡牛津町)―神埼宿(同、神埼郡神埼町)―田代宿(同、鳥栖市)――筑前国山家宿(福岡県筑紫野市)― |
19 |
やまさきちょう |
山崎町 |
外堀と西川の間、南北に通る山陽道にそった両側町。出入口の外堀にかかる「山崎町口御門」は非常時に固める請取口のひとつとされた。北の丸亀(まるがめ)町(寛永期は博労町)で山陽道は西に折れ、西川の「二ノ橋」を渡り城下の西の出入口、万町(よろずちょう)口へ続いた。 |
62 |
やまさきむら |
山崎村 |
岡山藩領津高(つだか)郡、南は山陽道の通る一之宮(いちのみや)村。 |
90 |
やまなか |
山中 |
長門国萩藩領の山陽道宿駅、山中宿。山口県宇部市。 |
42 |
ゆあさ・またえもん |
湯浅亦右衛門 |
湯浅又右衛門。岡山藩士。大目付:正徳4年1月〜享保16年7月(1714-1731)。 |
79 |
よしいがわわたしば |
吉井川渡場 |
吉井川西岸の上道(じょうとう)郡吉井(よしい)村と一日市(ひといち)村の村境を山陽道が通り、吉井川渡河点に対岸の邑久(おく)郡八日市(ようかいち)村と結ぶ船渡し(吉井渡)があった。 →一日市 |
47 |
よしだ |
吉田 |
長門国下関宿(山口県下関市)―吉田宿(同、下関市)―船木宿(同、宇部市)―― |
19 |
よびさか |
呼坂 |
周防国小郡宿(山口県山口市)―宮市宿(同、防府市)―富田宿(同、新南陽市)―呼坂宿(同、周南市)―柱野村(同、岩国市)―― |
19 |
よりあい |
寄合 |
岡山藩の格式。番頭、物頭(近習、外様)級の上級藩士で役職につかないものを編成。 |
21 |
よろずちょうぐち |
万町口 |
山陽道の城下西の出入口。万(よろず)町は丸亀(まるがめ)町から西へ折れ、西川を渡り、岩田(いわた)町に続く両側町。西の外れに惣門と番屋敷があった。 |
44 |
り |
里 |
距離の単位。1里=36町=約3.9q。江戸時代には全国的な統一は実現しなかった。1891年(明治24)に43.2qを11里(1里=約3.927q)と定めた。 |
11 |
りょうはん |
両判 |
岡山藩の仕置(しおき)家老両名の署名、の意。留方(とめかた)が書写した際に名書きを省略。 →両老 |
69 |
りょうろう |
両老 |
岡山藩の家老で仕置(しおき)職にある二人役の年寄(としより)。ここでは、伊木豊後(いぎぶんご)と日置猪右衛門(へきいえもん)の両名を指す。 |
68 |
りん |
厘 |
ここでは銀目(ぎんめ、銀貨の秤量単位)の単位。銀1分(ふん)の10分の1。 |
35 |
るすい |
留守居 |
江戸時代、諸大名が江戸屋敷においた江戸留守居。岡山藩の公称は「公儀使」。江戸に在勤して幕府と藩との公務の連絡や情報収集、他藩の同役との交際連絡にあたった。なお、岡山藩では公儀使とは別に国元勤めの「留守居」がおかれた。 |
22 |
れんじょうじ |
蓮昌寺 |
城下最大の寺院、日蓮宗。外堀と西川の間、仁王町(におうちょう)北部にあり、東は外堀、仁王町の東は常磐(ときわ)町、西は田町(たまち)武家屋敷。広大な寺域を有する大伽藍は空襲で全焼し、戦後大幅に縮小された。 |
48 |
わかとのさま |
若殿様 |
藩主の継嗣、後の池田宗政。 |
23 |
わきさか・とよのすけ |
脇坂豊之助 |
播磨国竜野藩主。 |
7 |
わたなべ・いずものかみ |
渡辺出雲守 |
出雲守永倫。長崎奉行:享保12年閏1月15日〜享保14年5月13日(1727-1729)。 |
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