お鮮さま五輪塔   岡山市の操山西麓、徳与寺(岡山市中区徳吉町1-2-33)の境内に「塔の山」と呼ばれている小高い丘がある。
 その丘の上に大きな墓石「お鮮さまの五輪塔」が立っている。高さ338センチの豊島石製で「文禄三甲午 妙法蓮華經法鮮 十二月十一日(註:グレゴリオ暦1594年1月21日)」と陰刻されている。
 五輪塔に刻まれている「法鮮」、すなわちお鮮とは誰のことか、これまでさまざまに考察されてきた。
 文禄3年(1594)当時、この丘には蓮昌寺の三重塔が立っていたので、「塔の山」と呼ばれていた。その蓮昌寺の過去帳写に、この五輪塔について「浮田氏御前 法名阿鮮大姉 文禄三年甲午十二月十一日」とあるために、「阿鮮」は宇喜多直家に寵愛されたお福(円融院)と同一人物で、五輪塔は彼女の生前墓とされる説が主流であった。
 ところが、近年の森俊弘氏の研究によると、別の人物の可能性が指摘されている。
 当時、日本に滞在中の宣教師、オルガンティーノの1595年2月14日付け書状(『16・7世紀イエズス会日本報告集大2巻』に収録)に、前年(1594年)、上方でキリスト教の洗礼を受けた宇喜多左京亮が、この書状を書き終えようとした頃のオルガンティーノに会ってしばらくして岡山に帰国すると、数日後に彼の妻が没したと記されている。
 この書状の記述から、五輪塔の墓碑に記されている法鮮は、お福よりも直家の甥である宇喜多左京亮の妻である可能性が高い。
                      
        

 
現在の蓮昌寺正門

現在の蓮昌寺正門

【蓮昌寺年表】

正慶年間(1332~34)または康永3年(1344)
    岡山城の南、榎馬場に建立(現在の岡山市北区丸の内付近)

天正元年(1573)
    旭川の東の森下村付近(現在の岡山市中区森下町)に移転。広大な敷地を与えられ「塔の山」もその寺域であった。

慶長6年(1601)
    現在地(岡山市北区田町1丁目4-12)に再移転


【古くから歌われていた「てまりうた」】
    歌詞に「お鮮さまのお墓」とあり、「塔の山」が蓮昌寺の寺域であったことが分かる。


 蓮昌寺てまりうたをお聞きください
蓮昌寺の 蓮昌寺の
ゆけば右側戻れば左
左らんか(欄干)に小手打ちかけて
お鮮さまのお墓を見れば
さても結構なお墓でござる
藪に止まったうぐいす鳥の
何と鳴くかと立ち寄りきけば
後生大事に法華経読む 法華経読む


岡山市中央公民館合唱団マダムコーラス
2014年10月24日収録