[一]「本郷佐之介」:本郷佐野介であると思われる。『史料草案 巻之二十』「十二月廿九日」の「御国表より追々同所へ出張之面々」に「御近習物頭貝太鼓奉行 本郷佐野介」とある。また、岡山大学附属図書館のマイクロフィルム目録データベースシステムを検索しても、「本郷佐野介」はいるが、「本郷佐之介」はいない。
[二]「同宵」:五日に続けてこの記述があるが、『伊達宗城在京日記』では六日に「備前家老池田伊せ呼候処、不快ニ付番頭と外ニ壹人出る。五代但馬両人号令人之名為尋候事」との記述がある。(『伊達宗城在京日記』頁七〇四。句読点を補った。)
また、上島与惣兵衛の奉公書『上嶋総衛』では「同年二月六日夜宇和島少将様西之宮御泊之節、出先重役被為召候付古田藤兵衛同道ニ而(以下略)」とある。以上のことから、伊達宗城による岡山藩関係者の呼び出しは「六日」であると考える。
[三]「出張惣督御本陣」:池田伊勢は、衝突後御影村に宿泊した後、正月十八日に「西之宮如意庵」に着陣している(池田伊勢奉公書『御奉公之品書上 池田貞彦 三』)。如意庵は六湛寺(京都東福寺の末寺)の塔頭の一つである(『兵庫県の地名 Ⅰ』、頁二五二)。慶応三年十二月、討幕のために東上していた長州藩兵が、六湛寺を本陣とした(『西宮市史 第二巻』、頁九九六―九九七)。
[人物]
●日置帯刀:岡山藩家老。天城池田氏から日置氏に養子に入り、一万六千石の家督を相続(『金川町史』、頁六七―六八)。西宮警衛の際、一隊を率いて東上中の慶応四年一月十一日、神戸で外国人と衝突した。 ●雀部次郎兵衛:岡山藩士。西宮警衛時の役職は大目付。岡山藩士の役職等は「池田家文庫 マイクロフィルム目録データベースシステム」および「同諸職交代データベースシステム」、各人奉公書によった。西宮警衛隊の役職は『史料草按 巻之二十』「十二月二十九日」(以下「西宮出張届」)によった。
●本郷佐野介:岡山藩士。西宮警衛時の役職は前記。 ●宇和島前少将:伊達宗城、前宇和島藩主。慶応三年十二月二十八日議定(『復古記 第一冊』、頁三八一)。慶応四年(明治元年)一月十七日外国事務総督兼帯(『同』、頁六〇七)。二月六日以降、兵庫で事件解決の指揮を取る。 ●出張総督:西宮警衛の出張総督は岡山藩家老・池田伊勢。天城池田氏当主。知行三万石(『新修倉敷市史』、頁一〇三)。神戸事件当時は若年(嘉永六年生。『同』、頁一〇五)であり、表立った行動はしていない。
[事物と地名]
〇判形:出納関係の職か。(『岡山藩』、頁六八)