津山 西北地区の神社と寺院 (美作総社宮・鶴山八幡宮・地蔵院) |
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美作(みまさか)総社宮には全国にある総社宮のうちで唯一、国の重要文化財に指定されている本殿がある。 美作総社宮本殿の創建等は不詳であるが約1.400年前、大国主命をお祀りしたのが始まりとも伝えられてもいる。 現在の本殿は1569(永禄12年)に毛利元就が再建したもので、その後大修理がおこなわれた。 この社殿の造りは美作地方独特の「入母屋妻入り(いりもやつまいり)」様式で向拝に千鳥破風(ちどりはふ)を配した建造物である。
津山城守護の鶴山(つるやま)八幡宮は、八子(やご)八幡とも呼ばれ、本殿は1635(寛永12年)に森家二代目藩主、 森長継が建立したもので、形式は入母屋妻入り。中山造の本殿は、国の重要文化財である。
地蔵院の歴史は天智天皇の時代に遡る。 地蔵院には愛宕(あたご)堂があり太古より火の守りとして信仰を集めていた。 津山城築城の際に初代藩主、森忠政は津山城の西北の方角にある地蔵院を 「乾(いぬい、戌亥)の霊地」 として尊信した。 久能山東照宮は日光だけでなく全国にあるが、津山では三代藩主、森長武がこの地蔵院の境内に東照宮を建立した。 地蔵院の表参道の門柱には右側に「東照宮」 左側に「地蔵院」と刻されている。 現在は日光東照宮と同じ様式の権現造りの東照宮社殿が地蔵院の本堂として、唐門は地蔵院隣にある愛山廟の表門として また総門は教本寺の表門として残されている。 津山に残る大名墓は、津山藩主であった森家の菩提寺 「本源寺」 その後に入封した松平家の菩提寺である 「泰安寺」 そして松平家最後の藩主の墓所が 「愛山廟」 にある。 愛山廟のすぐ前にはかつて 「宕々庵 (とうとうあん)」 という建物があり、1945(昭和20年) には 文豪 谷崎潤一郎が夫人、子どもやお手伝いさんと共に疎開して小説 『細雪』 を執筆したといわれ 「 疎開日記より 」 の文学碑が立っている。 地蔵院には当時、疎開児童を受け入れていた記録があり、 谷崎潤一郎の 『 疎開日記 』 にも 「 地蔵院といふ寺(天台)には神戸荒田の学童疎開して宿泊す 」 とある。 また、その 『 疎開日記 』 に登場している得能家は津山に疎開中の谷崎一家のお世話をしていた。その得能家には当主だった 得能静男氏に宛てた谷崎潤一郎からの手紙や、当時の谷崎家の日常について書かれた静男氏の備忘録が残っている。 (得能静男氏の備忘録、谷崎潤一郎から得能氏への手紙、封筒は得能良平氏提供による)
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〔岡山県立図書館メディア工房:平成23(2011)年〕 | |
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