ACHIEVEMENT
主な業績
(ブレザーなど VANSITE) |
石津謙介氏は、業界や出版関係者の間でメンズファッションの神様と言われ、
ファッション文化の普及や、
お洒落という概念を定着させた。
当時、男性にはまだお洒落という概念がほとんどない時代だった。
氏の興したヴァンヂャケット社の成功は、
それまで零細から中小規模だったファッション・アパレル産業が、
一流企業として社会に認知される役割を果たした。
日本が世界有数のファッション市場大国となる基盤をつくったのだ。
もし、石津氏の存在がなかったら
日本のファッション界は30年おくれていた、とも業界関係者にはいわれる。
氏のデザイナーとしての成功は、
それまでの特殊な技術職という位置づけから、
花形職業としてデザイナーを志す若者を急増させることになった。
世界的デザイナーの三宅一生氏も、
1992年、スペインのバルセロナで開催された第25回オリンピックの際、
独立直後のリトアニアからユニフォームを依頼された時に、
唯一「先生」と呼ぶ石津氏に相談した。
氏はユニフォームのデザインにあたって、
「一着で全員にフィットするものができればよい、このサイズの問題をクリアすべきだ。」
とアドヴァイス。
その後、三宅氏の傑作となるプリーツ・シリーズのもととなる、
動きが楽でどんなサイズにも対応できるプリーツを多用した、
リトアニアのユニフォームはできあがった。
三宅氏をはじめファッション界には氏を「先生」と仰ぐ人も多く、
現代のファッションシーンも氏を抜きには語ることはできない。
石津氏は、まだ経済理論などが普及する以前、
ヴァンヂャケット時代には、すでに今でいう優れたマーケティング活動を実践していた。
すべての発想や活動は、「自分がお客様の立場なら?」を原点とし、
しかし、それは、その時代にすべて新鮮な驚きをもって若者に迎えられた。
「T・P・O」「Tシャツ」「トレーナー」「スウィングトップ」「ステンカラー」等々、
300とも500とも言われる和製ファッション用語を新しく生み出し定着させた。
当初よりジャーナリズムをベースに若者へ「アイビー」をアピールする戦略をとり、
婦人画報社の「男の服飾」(後のメンズクラブ)出版の際にも、
企画・執筆に直接携わった。
ファッションや風俗にとどまらず音楽・映画・グルメ・クルマなど、
主要男性誌の原型をつくり上げた「メンズクラブ」誌などを通して、
その時代や文化をつくり、
それは現代のカルチャー・シーンの基礎ともなっている。
氏によれば「消えていく流行ではなく、日本に定着する風俗をつくろうとしていた。」
企画・開発、製品から販売にいたるまでマーケティング活動は徹底していたが、
ヴァンヂャケット社は「キャンペーン」や「プレミアム」という用語も、
その時代、すでに企業戦略の一つとして使用していた。
ヴァンヂャケットのプレミアムで出されたノベルティグッズだけでも一冊の本になるほどだが、
キャンペーンの度に応募が殺到し収集家も生まれた。
外国タレント来日公演時、ヴァンヂャケット協賛のスタッフTシャツにまで高い価値が生まれた。
(VANSITE) |
本社のある青山をヴァンタウンと呼び、
1970年代には、本社一階を99円で入れる公的ホールとして開放し、
カフェでは日本ではまだ珍しかったカプチーノやエスプレッソを紹介した。
多岐にわたる企業活動はインテリアにも及び、
イタリアのアルフレックス社の紹介や、
自社開発の観葉植物店グリーンハウス、
家庭雑貨店のオレンジハウスも青山で旗揚げする。
スポーツでも、
日本で最初のアメリカンフットボールの社会人チーム「ヴァンガーズ」をつくるなど、
その後の風俗や文化に多大な影響を与え続けた。
1978年、株式会社ヴァンヂャケット倒産後(会社は3年後復活)は経営を離れ
フリーのファッションデザイナーとして活躍。
NTT・JR東日本・JR九州・郵政省(当時)・警察庁など公共団体の
ユニフォームプロデュースを担当。
石津氏のユニフォーム界におけるデザインの業績も歴史に残るものだ。
東京オリンピックなど、スポーツイベントでの真紅のブレザーを筆頭に、
新幹線開業時に新調された専務車掌のユニフォームも、
それまでの紺色を基調としたものから、新鮮なイメージの明るいアイボリーカラーに変えた。
その他、活動範囲は幅広く
講演・執筆、テレビ・ラジオ出演など衣・食・住等のライフスタイルを積極的に提案。
現在では当たり前になっている「フライデーカジュアル」、
人生を100歳として25年ごとにライフステージをかえていく「人生四毛作論」、
悠々と人生を楽しむための「悠貧ダンディズム」 など、
来るべき高齢化社会に対する独自のライフスタイル論を展開した。
石津氏の提言の数々は、
現在の我々のライフスタイルの中で生き続けている。
「人としての功績」
石津氏の最も大きな功績は、人に対する影響力である。
圧倒的ともいえる存在感があった。
交流のあった人は皆、何らかの強い衝撃を受け、
ホンダの本田宗一郎氏やソニーの盛田昭夫氏なども、
シヴィックやウォークマンを開発する引きがねとなったという。
もっとも影響を受けた旧VANの社員で、
倒産後VANの復活に人生を賭けた横田哲男氏の言葉が、
「人としての功績」すべてを物語っている。
・・・翻って考えれば、 果たして近代企業の歴史の中で、会社を倒産させてしまったにもかかわらず、 路頭に迷わせてしまった自分の会社の従業員達からいつまでも慕われ続け、 ご本人の傘寿や白寿のお祝いには日本中から元社員が集まってくれるような、・・・ そんな社長がいただろうか。 お亡くなりになった後にさえ、たくさんの元社員が同窓会を開いているような、 そんな会社があっただろうか。 社員でもないたくさんの方がその倒産を惜しみ、再建にご協力たまわり、 あまつさえ、消費者のお客様から「VANありがとう!」とまで言われた企業が、 果たしてこの世に存在しただろうか? 今でも私たち旧VAN社員達は、皆が口にする。 「石津社長と一緒にVANで働けたことは、生涯の宝だった。 ・・・・・社長ありがとう!」 (横田哲男氏青春VAN日記 VANSITE) 注:「白寿」は原文まま |