BIOGRAPHY
石津謙介プロフィール
(写真 石津事務所) |
石津謙介(いしづけんすけ、1911年10月20日〜2005年5月24日)
岡山県岡山市生まれ
ファッションプロデューサー
ファッションデザイナー
日本メンズファッション協会最高顧問
(財)日本ユニフォームセンター理事
ファッションをはじめ、ライフスタイルから思想に至るまで、
日本の戦後文化に大きな影響を残した人物。
明治44年(1911) | 10月20日、 岡山県岡山市片瀬町(現・北区京橋南町)にて生まれる。 屋号「紙石津」という老舗紙問屋の5人兄弟姉妹の次男。 |
大正6年(1917) | 近隣の清輝小学校(現・岡山市立清輝小学校)に入学。 |
大正7年(1918) | 岡山師範学校附属小学校(現・岡山大学教育学部附属小学校)に転校。 |
大正15年(1926) | 旧制岡山一中(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学。 |
昭和4年(1929) | 明治大学商科専門部に入学。 |
昭和8年(1933) | 帰岡し紙問屋「紙石津」の跡を継ぐ。 同郷で一歳下の昌子と結婚。 |
昭和10年(1935) | 長男・祥介生まれる。 |
昭和12年(1937) | 次男・祐介生まれる。 日華事変による紙の統制のため、家業の紙問屋は開店休業状態になる。 |
昭和14年(1939) | 三男・啓介生まれる。 家族で中国・天津に渡り、洋品店・大川洋行に勤務、アパレル産業に入る。 |
昭和19年(1944) | 大川洋行社員ともども軍属となる。語学堪能のため海軍武官付きになる。 |
昭和20年(1945) | 天津で終戦を迎える。 語学堪能のため進駐したアメリカ軍の憲兵隊所属となる。 |
昭和21年(1946) | 家族とともに無一文で帰国。 岡山の実家も焼け野原となり、土地も売却する。 |
昭和23年(1948) | 大阪の佐々木営業部(現・レナウン)が有信実業(のちのレナウン・サービス・ ステーション)を創立し、営業部長として入社。紳士服を担当する。 |
昭和24年(1949) | 有信実業は神戸に移転しレナウン・サービス・ステーションを開設するが、 二年足らずで閉店する。 |
昭和26年(1951) | レナウンを退社。 大阪北炭町にて「VAN」ブランドのヴァンヂャケット社を設立する。
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昭和29年(1954) | 男性ファッション誌 「男の服飾」(のちの「メンズ・クラブ」)の創刊に携わる。 |
昭和30年(1955) | 「株式会社ヴァンヂャケット」に組織を改め、大阪を支店として東京に進出。 |
昭和32年(1957) | アイビー・ファッションを「VAN」ブランドで発表。 「男の服飾」誌上に着こなしなどをビジュアルで紹介する。 |
昭和36年(1961) | ヴァンヂャケット社の経営者であるとともに、 デザイナー・服飾評論家としても高い評価を得るようになる。 「VAN」ブランドで送り出したアメリカ学生のファッション「アイビールック」は、 1960年代の若者たちの間で一大ブームとなっただけではなく、 ライフスタイルや思想にまで大きな改革をもたらす社会現象になった。 |
昭和38年(1963) | ヴァンヂャケット社の本社を青山に移転する。 |
昭和39年(1964) | 東京オリンピックの日本選手団ユニフォームをデザイン。 東海道新幹線乗務員ユニフォームをデザイン。 (ファッション・エディターズ・ クラブ賞を受賞) |
昭和40年(1965) | 「いつ、どこで、何を着る?男のTPO事典」(TPOは石津氏の造語)と、 「男のお洒落実用学」を出版。(婦人画報社) |
昭和47年(1972) | 札幌オリンピック開催。日本のユニフォームをデザインする。 |
昭和53年(1978) | 4月にヴァンヂャケット社が倒産。負債400億円。 |
昭和56年(1981) | ヴァンヂャケット社再建。顧問に就任。 |
昭和58年(1983) | 「石津謙介 オール・カタログ」出版。(講談社) |
昭和60年(1985) | 「男の服飾戦略」出版。(千曲秀版社) |
昭和61年(1986) | 「食べて極楽、作って悦楽」出版。(文化出版局) |
平成7年(1995) | 毎日ファッション大賞受賞。 鯨岡阿美子賞受賞。 「石津謙介 味ばなし」出版。(平凡社) |
平成8年(1996) | 日本繊維新聞マーケティング大賞グランプリ受賞。 「石津謙介かくし味」出版。(平凡社) |
平成17年(2005) | 5月24日、肺炎のため逝去。93歳。 |
(写真 石津事務所) |
※岡山県立図書館電子図書館システム『デジタル岡山大百科』登録作品です。 |