天津神社は、土田字向山763番地にまつられている。この山は、向山〔むこうやま〕と呼ばれているが、地元では、鴨山〔かもやま〕と呼ばれることもある。かつて、この地には、天鴨〔あまがも〕神社がまつられており、同社は、幡多〔はた〕之郷、財田〔さいでん〕之郷(土田村を含む)の総鎮守であり、郷社でもあった。 なぜ、天鴨神社が南の地に移されたのか、どのような経緯で天津神社が向山に鎮座されているのか、その移り変わりの歴史を地域に残っている史跡をたずね、古老の話を聞きまとめてみた。 |
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備前国絵図(郡絵図) 寛永年間(17世紀前半)の岡山城下と旧山陽道・山陽道 鴨山 土田 矢津のようす |
![]() 古都〔こず〕駅−えび(鰕)釣の鼻−四御神〔しのごぜ〕−湯迫〔ゆば〕 を通っていたとある。 当時の西国の大名は、この旧山陽道を通って京へ上っていた。 |
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![]() ![]() 言い伝えによると、「えび釣の鼻」とは、その名のとおり、えびが釣れる、つまり、この辺りが、かつて海辺であったため名付けられたということだ。 ![]() 鴨が来る島、すなわち、鴨島が、陸続きになり、鴨山になったのではないかとの話であった。
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(岡山県立図書館所蔵) | |||||
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土田地区に残された石灯籠から歴史の流れを見る |
![]() 松嶋宮司の話によると、言い伝えでは、参勤交代のとき、神様は位が高いので、殿様が神社の前を籠〔かご〕から降りてお通りになられていたそうだ。そこで、殿様が籠から降りなくてもよいように、天鴨神社を山陽道の南の地、長岡の宮地に遷宮されたという。天鴨神社が長岡へうつされると土田村の人々は、参拝に時間がかかるので、向山の天鴨神社の旧社地に設けられた小祠を遥拝所としていたとのことだ。 (現在、天鴨神社は、JR東岡山駅から南西約1kmの岡山市長岡422番地にある。) そこで、天津神社と、かつての天鴨神社の関係について、土田地区に残されている石灯籠に手がかりがないか、銘文を調べてみた。 |
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![]() 右図にある八幡宮から南にくだると中溝川を渡る橋のたもと(小字中庄司)に古い石灯籠が1基ある。さらに進んで新しい団地(アエル東が丘)内を通り、向山と頭高山〔ずこうざん〕の間をぬけると天津神社の参道があり、南参道の石灯籠が1基立つ。 ![]() ![]() 北面に『八幡宮』・『天神宮』、南面に『寛政五丑稔(1793)六月吉日』、東面に『氏子中』と刻まれている。 ![]() ![]() 南面に『天神宮』・『八幡宮』、東面に『享和元(1801)年』、西面に『九月吉日』、脇の自然石に『出村中』と刻まれている。 |
![]() 現在の天津神社周辺 |
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明治10(1877)年天津神社が向山に建立された |
![]() 明治後期の天津神社付近の地図の写し (土田氏子所蔵) |
![]() ![]() 天津神社には参道が南北に2つあることが理解できた。 ![]() ![]() |
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竜之口電子町内会編集委員会 |
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『岡山市史 五巻』 岡山市史編集委員会 岡山市役所 1938 p3413 『岡山市史(宗教・教育) 』 岡山市史編集委員会 岡山市役所 1968 p638 『岡山県神社誌』 岡山県神社庁 公用印刷株式会社 1918 p530 『国史大辞典 第三巻』 国史大辞典編集委員会 吉川弘文館 1983 p982 『吉備群書集成 第一輯』 吉備群書集成刊行会 編纂・発行 1921 p604 『吉備群書集成 第七輯』 吉備群書集成刊行会 編纂・発行 1931 p580 『備前記 全』 就実女子大学近世文書解読研究部 備作史料研究会 1993 p350 『岡山県の地名 日本歴史地名大系 34』 平凡社地方資料センター 平凡社 p1073 『上道郡誌』 上道郡教育会 臨川書店 1922 p1043 『歴史の道調査報告書 山陽道』 岡山県教育委員会 1992 p50 岡山県における神社整理の基礎的研究 藤本頼生 皇学館論叢第31巻第1号 皇学館大学人文学会 1998 p44 『神社明細帳(7)』 岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫マイクロフイルムリールNo、TPA−030 |
〔岡山県立図書館メディア工房〕 |
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