絵馬 武者絵
リストマーク 奉献 川中島の戦い図
制作年 明治参拾参年第五月吉祥日
願主 白髭善平 石坂松次郎  白髭平吉 白髭宇○郎 他2名
武田信玄と上杉謙信は川中島で5回も戦った。永禄4(1561)年4回目の戦いが有名。この戦いで謙信は馬に乗って武田の本陣に切り込み信玄を切りつけた合戦の場面として語り伝えられている。謙信が切りかかると、信玄は手にした軍配で受け止めた。 
リストマーク  奉献 加藤清正先陣争い図
大絵馬 137×192cm
制作年 明治二十五年五月吉祥日
願主 不明
加藤清正は安土桃山、江戸初期の武将。豊臣秀吉に幼少から育てられ、仕えて武功多く賤ヶ嶽七本槍の一人。朝鮮出兵の小西行長との先陣争いの後、意見の相違で石田三成と対立。関が原の戦いで東軍の徳川方に属し勝利を収め熊本城主となる。豊臣家への忠誠心から豊臣・徳川両家関係維持に尽くした。
リストマーク 楠公父子決別の図
大絵馬70×98cm
制作年 不明
願主 不明
楠木正成(くすのきまさしげ)は、南北朝時代の武将。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。不利な戦いをしなければならなくなった。覚悟を定めた正成は、わが子正行(まさつら)を呼び寄せ、「生きて汝の顔を見るのもこれ限りぞ」と述べ、形見として菊水の短刀一口を渡した。ときに正行11歳であった。正成は湊川にて討死した。成人した正行は父に代って忠誠をつくしたが、父の後を追って討死した。
リストマーク 奉獻  賤ヶ嶽(しずがだけ)の戦い図
大絵馬
制作年 嘉永元年戌申八月吉日
願主 當所 坂田参宮連名 鉄治郎 富治郎 林吉他2名
天正11(1583)年 豊臣秀吉は「賤ケ嶽の戦い」で柴田勝家を破り織田信長の後継者になった。この戦いで手柄をたてた7人の若い武士がいた。これが「賤ケ嶽の七本槍」。秀吉に仕えた福島正則(23歳)は、目覚しい戦いぶりをみせ7本槍の1人に数えられる。他に加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則。
リストマーク 木村重成若江の戦い図
天井柱のため分割写真にした大絵馬
制作年 不明
願主 不明
木村重成は豊臣秀頼に仕え、慶長19(1614)年大阪冬の陣で篭城。秀頼の使者として、徳川方と和睦し、徳川秀忠の誓書を受け取る。 翌年大阪夏の陣で重成は八尾・若江村で5月6日に徳川秀康の武将伊井直孝の軍と激戦、井伊の家来庵原朝昌(いはらともまさ)の十文字の槍で敗死。大坂落城は1615年5月7日、淀殿と豊臣秀頼は5月8日自害。父木村隼人正は「賤ケ嶽の戦い」で活躍した豊臣秀吉の家臣。
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