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大絵馬 137×192cm |
制作年 明治二十五年五月吉祥日 |
願主 不明 |
加藤清正は安土桃山、江戸初期の武将。豊臣秀吉に幼少から育てられ、仕えて武功多く賤ヶ嶽七本槍の一人。朝鮮出兵の小西行長との先陣争いの後、意見の相違で石田三成と対立。関が原の戦いで東軍の徳川方に属し勝利を収め熊本城主となる。豊臣家への忠誠心から豊臣・徳川両家関係維持に尽くした。 |
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楠公父子決別の図 |
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大絵馬70×98cm |
制作年 不明 |
願主 不明 |
楠木正成(くすのきまさしげ)は、南北朝時代の武将。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。不利な戦いをしなければならなくなった。覚悟を定めた正成は、わが子正行(まさつら)を呼び寄せ、「生きて汝の顔を見るのもこれ限りぞ」と述べ、形見として菊水の短刀一口を渡した。ときに正行11歳であった。正成は湊川にて討死した。成人した正行は父に代って忠誠をつくしたが、父の後を追って討死した。 |
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奉獻 賤ヶ嶽(しずがだけ)の戦い図 |
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大絵馬 |
制作年 嘉永元年戌申八月吉日 |
願主 當所 坂田参宮連名 鉄治郎 富治郎 林吉他2名 |
天正11(1583)年 豊臣秀吉は「賤ケ嶽の戦い」で柴田勝家を破り織田信長の後継者になった。この戦いで手柄をたてた7人の若い武士がいた。これが「賤ケ嶽の七本槍」。秀吉に仕えた福島正則(23歳)は、目覚しい戦いぶりをみせ7本槍の1人に数えられる。他に加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則。 |
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木村重成若江の戦い図 |
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天井柱のため分割写真にした大絵馬 |
制作年 不明 |
願主 不明 |
木村重成は豊臣秀頼に仕え、慶長19(1614)年大阪冬の陣で篭城。秀頼の使者として、徳川方と和睦し、徳川秀忠の誓書を受け取る。 翌年大阪夏の陣で重成は八尾・若江村で5月6日に徳川秀康の武将伊井直孝の軍と激戦、井伊の家来庵原朝昌(いはらともまさ)の十文字の槍で敗死。大坂落城は1615年5月7日、淀殿と豊臣秀頼は5月8日自害。父木村隼人正は「賤ケ嶽の戦い」で活躍した豊臣秀吉の家臣。 |
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