街はどんどん顔を変える。守り続けてきた生活の場は、時代を経て人目にふれなくなり、歴史の表舞台から忘れ去られていく。人々が語り継いできたものは不思議な形で残っていく。中世の山陽道は古都宿から土田を通って国府市場へ向かう。この道に残された見えないものを見て歩く。 |
旧山陽道土田地区を歩く。『吉備温故秘録』に土田村には城主は不明だが古城跡があり、山の峰東西百間南北百三十間ばかりの築地の跡があって、十郎殿の陣という、と記す。『東備郡村史』では、平家物語にでてくる寿永2(1183)年備前守に赴任された源十郎行家の城址ではあるまいかと推定している。江戸時代大庄屋をつとめた満籐家の屋敷のあたりをいうらしく、現在1アール足らずの土地が『古屋敷』の地名で残っている。。 |
満藤家の豆柿 江戸時代に池田の殿様が猪狩りのとき満藤家でお休みになり、豆柿をお出ししたら 「おいしい、おいしい」と召し上がったと伝えられている。 |
満籐家の大クロガネモチ ひときわ高く地域を見守り続けてきた。 |
古屋敷橋 土田街道の西の端は中溝川を渡る。その川に『古屋敷橋』の名がつく橋がある。登記簿に一画だけ『古屋敷』の名が付いているので、橋に名を残したと土地の所有者から聞いた。 |
竹やぶと墓石 旧街道の中庄司から八幡宮へ続く竹やぶのすそには、豊島石ではないかと思われる苔むした由緒ありげな墓石が、落ち葉の中にころがる。 |
古井戸 八幡宮への坂道を歩いていくと柿畑などがひろがり、歴史を感じる矢津石の石垣が映える。畑には今も水の湧き出る古井戸が残っている。 |
山端山〔やんばたやま〕頂上付近の石造物 | |||
二間四方の築地の中に方柱の碑があり『明現宮』とある。笠石と宝珠を持つ。手水鉢に明治八年七月とある。方柱の碑は『明治44年10月調之 土田共有林分割地図』の中心に記してあり新地山になったと、土地の人の資料に記してある。明見様と呼び古老の若き日の遊び場であったと聞いた。 |
頭高山頂の古墳跡 古墳後期の横穴式石室(全長5,0m)。墳丘は平らになり形をとどめていない。 頭高山は今、公園として整備されつつある。 |
海老釣 土地の人に尋ねても場所が定かでない。海老釣は 『和気絹』によると、宍甘〔しじかい〕村の出鼻をいい、大昔ここが入海〔いりうみ〕だった時の名とある。旧山陽道と呼ばれていた頃の土田村の東端の山鼻(山の端)は今は畑になり、どこをさすのか定かでない。岡山市の『土地臺帳附屬地圖』には、「海老釣」の小字で残っている。改めて今の姿を何らかの形で残しておきたい。 |
土田地区の集会所 | |
額 犬養毅 揮毫 「成胡為弗」 為 財田公會堂 庚午三月 犬養毅 落款あり |
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「為さずんばなんぞ成らん」 「庚午三月」昭和5(1930)年3月 |
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昭和2(1927)年に土田の人々が集会所として建て現在の公會堂となる。岡山県出身の犬養毅氏に財田村の名で揮毫を願い、額が現在残っている。 |
「息不彊自」自ら勉めて励むこと | |
西集会場(建築年不詳) |
農事試験場の変遷 | ||
岡山県立農事試験場果樹分場 大正8年〜昭和43年 |
ぶどう・もも・なし・くり・いちじく等試験栽培していた。 | 昭和45年に土田公民館として借用、前土田集会場として活用 |