大覚大僧正画像 |
大 覚 備前地方に日蓮宗の信者が多く、広島県の安芸地方に浄土真宗の信者が多いことを「備前法華に安芸門徒」というが、「南無妙法蓮華経」と刻まれた多くの題目石が、県南で日蓮宗が盛んであった様子をうかがわせる。 |
また一方で、畿内・瀬戸内諸国に布教して、はじめてこれらの地方に日蓮の教えを広め、末寺、信者の獲得に尽した。このため師日像から「寺主(じしゅ)上人」と敬称され、日像の後をうけて、妙顕寺第二世となった。 岡山県内で大覚が開創したと伝える寺院は三十カ寺を超える。一般に、浜野(現岡山市浜野)に上陸した大覚が、地元の豪族多田氏の保護を受け、松寿寺を開いたのが、備前地方へ法華宗が伝えられた最初といわれる。しかし、牛窓の本蓮(ほんれん)寺も、西国巡錫(じゅんしゃく)中の大覚が地元の石原氏の帰依(きえ)を得て、法華堂を創立したのが始まりとしており、大覚は海運の盛んな瀬戸内各地に布教しながら、旭川河口の浜野に上陸し、備前国への布教を始めたものと考えられる。 岡山県下で、大覚の布教活動の拠点となったのは野山庄(のやまのしょう)の妙本寺(現賀陽町)と備前の福輪(ふくりん)寺(のちの妙善寺)や蓮昌(れんじょう)寺であった。妙本寺は奥州出身の武士であった伊達氏が野山庄(現賀陽町)の地頭職を得て入部し、建立したもので、伊達氏は龍の口法難の時の日蓮の毅然とした態度に感じて日蓮に帰依したという。野山庄への入部に際し、伊達氏が日蓮に野山庄に寺院を創建するよう依頼、日蓮は弟子の日像を開基として推挙したが、日像が布教のため京都を離れられないため、名代(みょうだい)として大覚が派遣されたと伝えられる。さらに、大覚は伊福郷(現岡山市)へ入部した東国武士松田氏の保護のもとに、妙善寺、蓮昌寺を開いて、布教の拠点としたのであった。 延文三年(正平一三年=一三五八)、京都が旱魃(かんばつ)にみまわれた時、大覚は天皇の命で雨ごいの祈祷(きとう)をおこない、見事危機を救った。この功績によって、日蓮に「大菩薩(ぼさつ)」日像の師日朗(にちろう)と日像に「菩薩」の号が、大覚自身も「大僧正」に任じられた。江戸時代、大覚が雨ごいの祈祷をする姿に描かれるのはこのためである。 【参考資料(岡山県立図書館所蔵)】 ・『大覚』(渡辺知水) ・『大覚大僧正と三備開基寺院』(原田智詮) ・『大覚大僧正』(下村宏之) など大覚その人を紹介した著作のほか、 ・『備前日蓮宗沿革史』(妙覚寺) ・『法華宗松寿寺誌』(浜野史蹟研究会) ・『妙法寺史』(妙法寺) などにも大覚の活動は必ず取り上げられている。 |