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羽生永明
「平賀元義」
  (山陽新聞社刊)より転載

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羽生 永明はにゅう えいめい

(1868〜1930)

 塚本吉彦と同じく吉備史談会の主要メンバーの一人で、平賀元義を世に紹介した功績で知られる。
 明治元年(1868)に長野県で生まれる。本名は芳太郎、号は東洋。明治42年(1909)に永明と改名した。父は長野県飯田藩堀家家臣。
 長野県尋常師範学校、国学院本科、選科を卒業した後、はじめ岩手県尋常師範学校に就職。
 岡山との縁は、明治29年(1896)に岡山県岡山尋常中学校(岡山朝日高等学校の前身)の教諭として赴任したときに始まる。3年後の明治32年(1899)、郷土の歴史研究グループ吉備史談会が発足、それに幹事として参加し、岡山県の歌人、平賀元義について研究した。
 羽生の研究成果は、明治33年(1900)1月21日より山陽新報上で「恋の平賀元義」と題して発表される。羽生の発表の形では8回だったが、それ以降井上通泰らからの意見・疑問が数多く新聞社に寄せられたため、思いがけず紙上で議論が沸騰し、最終的に26回の連載になった。これにより平賀元義という歌人を知った正岡子規は、明治34年に新聞「日本」での連載「墨汁一滴」で13回にわたって元義を紹介、その作品を絶賛している。

 その後、羽生は長野で職を得て帰郷するが、明治39年(1906)には再度来岡する。金川中学校、西大寺高等女学校に教師として勤めながら、現在の久米郡柵原町の矢吹家に伝わる元義の数百部に及ぶ著作を調査した。これは後「平賀元義伝」としてまとめられるが、羽生本人の死去(昭和5年)、太平洋戦争などを経て世に出ることがなかったため、元義研究家の間では「幻の稿本」と呼ばれていた。
 その原稿は昭和53年(1978)に東京の羽生家で発見され、昭和61年(1986)に山陽新聞社から「平賀元義」として出版された。元義研究の基本図書として高く評価されている。
 なお、矢吹家に伝わる元義の原稿は、写真製本したものを当館で見ることができる。

【参考文献】
羽生永明の著作としては前出『平賀元義』のほか『平賀元義研究資料』羽生永明著文化センター製作がある。正岡子規の「墨汁一滴」は『子規全集第11 巻』/講談社1975 に収録されている。


『岡山県総合文化センターニュース』No.421号、H12年、5月

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