早川 正紀はやかわ まさのり

(1739〜1808)

 江戸時代後期の幕府代官。<まさとし><まさつな>と、読む説もある。
 江戸の井上河内守の家臣和田市右衛門の次男として生まれ、のち早川家の養子となる。
 美作国久世の代官、備中国笠岡の代官となる。管内農村を親しく巡回し、経済的精神的に荒廃した状況の復興につとめる。倹約の奨励、赤子間引き禁止を説き、「久世条教」を出版し、庶民の教育につとめた。また、吉岡銅山の再興、べんがら生産の保護、虎斑竹の保存など、地域産業の振興につとめた。
 後に武蔵国久喜(現埼玉県久喜市)に転任するが、領民から代官への留任願いが4回もおこったほど名代官として広く民衆に慕われた。
 【参考資料(岡山県立図書館所蔵)】
「久世条教」吉備文庫第5輯(小林久磨雄編、山陽新報社、昭5)
「早川代官」(永山卯三郎著、岡山県教育会、昭4)
「早川代官と福島彦介」(福島毅著、平7)
「いなか代官奮戦記 美作・久世の村おこし 早川正紀公物語」(久世町、平2)

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