伊木忠澄は土倉一静の子として文政元年(1818年)に岡山に生まれた。天保4年(1833年)伊木忠正の養子となり伊木家を相続した。伊木家は岡山藩筆頭家老の家である。
嘉永6年(1853年)のペリー来航により、岡山藩は安房・上総での沿岸警備を命じられた。岡山藩は房総両国に預所を持ち、さらに従来厳しく取り締まられていた鉄砲などの関所の通過も家老の証文によってできるようになった。外圧に対して幕府が挙国一致体制をめざした結果だと考えられる。この時忠澄は江戸屋敷で指揮をとっていたが長州などの各藩の有志と連絡してアメリカ船の襲撃計画をねったという。ペリー来航当時一門の大砲も持たなかった岡山藩が安房・上総沿岸警備を機にわずかの間に百数十門の大砲を持つようになるがこれは忠澄と江戸留守居村上小四郎の決断であった。忠澄は西洋流砲術・大砲を積極的に導入したのである。
元治元年(1864年)の長州征討に際して側近近藤定常の鞭撻もあって姫路に出向いた忠澄は征長総督徳川慶勝に面会し進軍の中止を説いている。慶応2年(1866年)の第2回長州征討では忠澄は側近の近藤定常の意見を入れて『国境三石まで出兵して征長軍を遮断すること。本藩の藩士が同調しない時には伊木家家臣のみで実行すること。』に同意している。しかし岡山藩は朝敵になることをおそれて形式的に備後路へ出兵することになる。
岡山藩主池田茂政の実家が水戸家で一橋慶喜の実弟でもあった関係で幕末動乱期の岡山藩はにえきらない立場をとらざるをえなかった。このような状況の中で忠澄が長州藩に友好的な立場をとり勤王討幕へと岡山藩を導いていったといえよう。伊木氏は元来織田信長の家臣であったために岡山藩の中で特別な位置にあり、忠澄が藩主とは異なる行動をとりやすかったと考えることもできる。
明治2年に三猿斎と変名し、世俗から離れて茶の湯三昧の生活を送ろうとしたが明治4年の藩籍奉還により一時岡山県大参事となる。廃藩置県とともに官を辞するが明治11年に旧臣久岡幸秀らによる児島湾干拓事業のために伊木社を創立する。旧臣たちのことを考えて干拓事業に手を出したが、この資金調達のために財産を失い、三猿斎が収集した名器も散逸してしまう。児島湾干拓事業は藤田伝三郎によって推進されることになる。
【参考文献】
『邑久町史』(邑久町役場・昭和47年)
『茶人伊木三猿斎』(桂又三郎著・奥山書房・昭和51年)
『郷土史事典岡山県』(柴田一・朝森要編・昌平社・昭和55年)
『岡山県史第9巻・10巻』(岡山県平成元年・昭和60年)