池田 光政いけだ みつまさ

(1609〜1682)

岡山藩3代目藩主。
姫路藩主池田利隆の嫡子として生まれたが、利隆の死後、転封させられ鳥取藩主となる。1628年天樹院千姫の娘勝子と結婚し、1632年には岡山藩主となった。光政は名君とうたわれ、光政の代に城下の全盛を迎えた。
はじめ、熊沢蕃山を召し抱え、陽明学を信奉した。
備前大洪水の被災者救済を契機に給人の地方知行制、郡方支配制度など全面的な藩政改革を行ない、藩主への権力集中を図った。
のちに陽明学から朱子学に移り、儒教主義の統制を強化し、寄宮、切利支丹神道請、寺院整理を行った。また、手習所の設立、藩学校の新築も行った。閑谷学校(現備前市)もそのひとつである。
1672年には隠居して嫡子綱政に相続させた。享年74才。
 【参考資料(岡山県立図書館所蔵)】
「有斐録」
「率章録」(吉備群書集成4)
「仰止録」(吉備群書集成4)
「芳烈公」(中江理一郎、時中学館、明44)
「池田光政公遺芳」(岡山県編・刊、大15)
「池田光政公伝」(永山卯三郎、石坂善次郎刊、昭7)
「池田光政」人物叢書(谷口澄夫、吉川弘文館、昭36)
「池田光政日記」(藤井駿・水野恭一郎・谷口澄夫編、山陽図書、昭42)
「思想の流れ」(山陽新聞社編・刊、昭52)
「不受不施派農民と池田光政」(しらが康義、民衆研究19号、昭55)

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